next up previous
次: にっぽん 上: 近代日本語再定義 前: せかい

そんざい

【存在(そんざい)】「『ある』と発見できるためたにはそれが『ある』ことが必要である」。この第二の『ある』を「存在する」といい、「ある」の根拠としての「あること」を「存在」という。「存在」はまた、「いた、いた」と発見できる根拠、「あう(会う)」ことのできる根拠でもある。「そんざい」はたんなる「ある」ではない。「ある」の名詞化でもない。

◆英語の「being,existence」、ドイツ語の「Sein」、 ラテン語の「esse」の訳語として、もともと仏教f教典のなかで用いられていたものをもとに、近代に再編された語である。社会が明治維新革命をへて近代資本主義段階になることによって、「あることの根拠」を指示する言葉が必要となった。「存在」が言葉として必要になったのは、言葉の土台である現実ができた近代である。近代では、人は封建的なしがらみから自由に普遍的・一般的に存在するものとされた。近代の「自由な人間」は自由であるが故に「自分自身がある」ということを意識する。自分自身を、「ある」という属性のみをもって「ある」ものとして意識する。これを指し示す言葉が「存在」である。資本主義的な生産の関係が生み出した人間の認識である。この意識が生まれた以上、対応する言葉もまた必要になるのである。 ◇『吾輩は猫である』夏目漱石「今迄世間から存在を認められなかった主人が」 ◇『雁』森鴎外「高利貸しと云う、こはいものの存在(ゾンザイ)を教へられてゐても」

◆西欧語の「being,existence」、「Sein」、「esse」は「連辞」として言葉の構造そのもののなかにあった言葉である。アリストテレス以来、この「存在そのもの」を発見して驚き、これを全体として統一して考えようという問題意識が、西洋語の構造に規定されて続いてきた。それが近代になって「存在」として再発見されたのである。「連辞」によってつなぐことのできる根拠として再発見されたのである。その土台には日本語の場合と同様に近代の成立がある。

それに対して日本語の「ある」は連辞ではない。発見の「ある」である。発見できる根拠として「存在」が見いだされたのである。「ある」のは人間との関係において「ある」、ということが言葉の構造のなかに組み込まれている。この違いを正しく認識することなく西欧哲学、とりわけ存在論を学んでもそれは誤解である。逆に、言葉に規定された「ある」の違いを正しくおさえるならば、言葉の違いを相対化する視点を獲得することができる。

■「構造」の例としてあげられた数学の初等整数論における「一次不定方程式の解の存在」は「一次不定方程式には解がある」という一次不定方程式の基本的な性質を名詞化し定式化するために「存在」が用いられる。 ◇一次不定方程式の解が常に構成できるためには常に解が存在することが必要である。ただし五次方程式の例が示すように解が存在しても構成できるとはかぎらない。

▼「ある」の根拠としての「ある」は、用例としては古い。 ◇ありとあらゆる。 ◇『竹取物語』「我家にありと有人あつめて」 ◇『土左日記』「ありとあるかみしも、わらはまでゑひしれて」 ◇『竹取物語』「殿の内の絹、綿、銭など、ある限りとり出でて」 ◇『枕草子』三「走り打ちて逃ぐれば、あるかぎり笑ふ」 ◇『蜻蛉日記』上「女(め)親といふ人、あるかぎりはありけるを、久しうわづらひて」 ◇あろうことか、彼女に裏切られた。

■これらの用例の中に近代になって「存在」としてとらえられる内容がすでにある。しかし、それが「存在」として言葉がおかれ分節されるのは、近代になってからである。

−【存在する】「ものが『ある』と発見できるためたにはそれが『ある』ことが必要である」というときの第二の根拠となる『ある』を、それが根拠としての一般的な「ある」であることを明示するために、「存在」から作られた「サ変動詞」。


Aozora Gakuen