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高校での数学と教育数学

  小学校の算数も中学・高校の数学も大学初年の数学も,そして専門的な現代の数学も,数学として高い統一性がなければならない.そのうえで,専門化される前の,文明社会で生きるうえで必要であり,人の土台となる数学のすべて,これが「初等数学」である.
  現代日本では,初等数学の意義と内容が定まっていない.指導要領はたびたび改変される.教科書もまた,根拠を示すべきところを感覚的な説明に置きかえ,そうすることがわかりやすくすることだと思いちがいをしている.それでは,わからないときにたちかえる土台がなくなり,考える力が育たない.こうしてますます分数や関数のわからない生徒を増やしている.
  近年「教育数学」が言われるようになった.この「教育数学」という考え方に私が出会ったのは,東北大地震の直前,2011年2月であった.京都大学数理解析研究所で開かれた研究集会<教育数学の構築>の最終日,数学科の学部と院で同級で三重大学教育学部で教員をしてきた蟹江幸博さんの話を聴きにいったときである.
  彼の「教育数学は教育という視座を通して数学を見るというものである.提示すべき数学の在り方を問題にする.伝える数学が,社会にどのような影響を与えるか,また逆にどのような影響を受けるものであるかをも視野に入れるものでありたい.」に共感した.「教育数学」はまさに私がやってきたことであった.私が青空学園の場で考えようとしていたことに大きく重なることであった.
  そして2014年2月,次に開かれた『教育数学の一側面−高等教育における数学の規格とは−』では私も報告した.それを踏まえた講究録の原稿が『次の世代に何を伝えるのか〜今こそ「高い立場からみた初等数学」を〜』である.これは数理解析研究所講究録として2014年7月に提出した.また,その4年後の2018年にも研究会が開かれ,8月には同じ研究会の講究録として『大学初年級数学において何を伝えるべきなのか』を提出した.これらは青空学園数学科にも置いている.
  かつて受験生に教えるようになって,予備校や塾から教材を手渡された.実は私は,このときはじめて受験数学に出会った.高校のとき,数学は得意科目であった.いろいろ数学の本を読み,練習問題を一般化したりして考えていたが,数学を考えること自体がおもしろくて,受験のための数学の勉強はほとんどしなかった.かつて教えていた高校も大学受験とはほとんど無縁だったので,受験のために数学を教えることはなかった.
  予備校から渡された問題と解答を見て思ったのは「自分が高校のときこんな勉強はしなかった.こんなことをしなくても解けるようになるはずだ」ということであった.
  高校生や受験生に教える以上,こうやれば力がつくという方法を実際に伝え,また本当に力をつけねばならない.私が塾・予備校で働くにあたって,数学の準備としてしたことは,自分が高校生のときにやっていたように,問題をできるかぎり一般化して解く,ということであった.そのときに作ったノートが青空学園数学科の基礎になっている.「わかってにっこり」という教授法と,一般化を背景に内容を深めることと,この二本足で受験業界での仕事をやってきた.
  受験生に教えてはじめて,数学を教える力が自分にあることに気づいた.生徒が分かっているのか分からないのか,当の生徒以上にこちらがつかむことができなければならない.そして,原理原則のはじめに戻ってそこから考えさせ自分で分かるようにしむけていかなければならない.これができるのは,かつて教えた高校での試行錯誤のたまものである.そこでいつの間にか身につき血肉となっていた自分自身の教える力に気づいた.このような力を与えてくれた初任の高校,とりわけ私の担任した生徒たちに心から感謝している.
  高校時代には,数学同好会をつくった.部員が二人,教師が二人の同好会であったが,そこで数学の入門書を読んだり,入試問題の一般化を考えたりしたときが自分にとって至福の時間であった.そんな高校生は今でもいるはずだ,一人で考えている高校生もいるはずだ,そんな彼らとウエブ上に数学同好会を作ろう,これもまた青空学園をはじめた動機のひとつであった.
  私自身は,どんなことを考えるときも日本の高校生のおかれた現実である「教科書」と「入試問題」から始めようと考えている.高校生向けの数学読み物などで「受験のことはしばらく忘れて」と書かれているものがある.しかしこの態度は,現実からの逃避である.あくまで高校生の現実を忘れず,生徒諸君とともに現実の教科書や入試問題からはじめて,それを掘り下げ深く考えてゆきたい.
  日本の学校数学は,無限悪循環に陥っている.日本の教育は,「わかってにっこりしたい」という生徒の願いとはまったく逆の方向へ進んでいる.高校教員時代の経験は,「わかる」ためには,はじめにたち返らなければならず,そこをとばしてうわべを感覚的に教えてもだめだ,ということである.やはり,たち返る理論は明確で,しかもきっちりしていなければならない.考えぬいたうえで言いあらわされた理論というものは,かえって分かりやすい.
  ところが,指導要領を作成している人は,「日本の数学」に対する考えも定まらず,数学を教えるということの経験に乏しく,生徒の数学力が低下していることに対して,本質的な部分を感覚的な説明に置き換え,そうすることでわかりやすい教科書になると思いちがいをしている.しかしそれでは,わからないときにたち返る根拠がいよいよなくなり,教えるにも土台なしに感覚的にしか教えられない,ということになる.そしてますます分数や関数のわからない高校生を増やしている.
  四半世紀の日本の文教政策を省みると,共通一次テスト・センター試験が導入され生徒が落ちついて勉強できなくなり,指導要領の改変のたびに学ぶ内容が薄められてきた.考える力と判断力を育て人間性を豊かにするのとは逆の方向に,一貫して施策が進められてきたといわざるをえない.為政者が,その権力を維持,強化しようとして,人びとの批判力・判断力を弱めるためにとる政策のことを「愚民政策」という.四半世紀の日本の文教政策が現場でどのように機能したかという事実からの帰納的な結論は,日本の文教政策の基本は愚民政策だということである.
  算数・数学の学習内容はたびたび改変され,一貫していない.その根本には,「数学の意味」についての確かな理解が,日本のなかで打ち立っていないという事実がある.したがってまた,学校教育で数学をどのように位置づけ,どのように教えるのかについても,実際のところ世間の統一した理解があるわけではない.
  専門化される前の,文明社会で生きるうえで必要であり,人間の土台となる数学のすべて,これを一つの言葉で言い表したい.「初等数学」,「基礎数学」「教養数学」等といわれてきたがこなれていない.その結果小学校では算数といい,中学からは数学という折衷主義できた.しかし本当は一つの数学である.
  西洋では,Element of Mathematics といえば,日本語では「数学原論」と訳している.実際,ブルバキの『Elements de mathematique』は『数学原論』と訳している.一方,クラインの『高い立場から見た初等数学』は『Elementar mathematik vom hoheren Standpunkte aus』の訳である.つまり,西洋文化では,element は原理・原論であると同時に初等であるということになる.これはどういう文化であろうか.要素に還元することが,ことの成り立つ原理を解明することであると同時に,要素に還元するならばそれは万人の理解しうることとなる,という基本思想に貫かれた文化である.
  私は,要素に還元することが原理的であり,それがまた初等段階から積みあげていく土台であるという文明は,力強い文化であるし,ここに,近代資本主義が西洋にはじまった根拠もあると考えている.しかし,日本では「原理」と「初等」を等しいこととする考え方は,一般的ではない.西洋文化とは異なる文化にあって「初等」といえば,それは「初歩」の意味しかもちえない.
  しかし,授業でタイルを使って分数の積や商を教えるときに,一歩原則に立ちかえって皆で考えることでわかってにっこりできたという経験は,まさに原理に立ちかえることが初等でもあることの証しである.