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集合論の逆理

南海  集合論はカントールによってはじめられた.無限に段階があるというカントールの発見,これがはじまりだった.

カントールは,参考文献にあげたカントール自身の論文の英訳本で「集合」を次のように定義している.

「集合」によって,はっきりと限定されかつ分離された直感または思考の対象$m$を集めたその全体$M$を意味する.
これらの対象$m$を「要素」という.記号としては次のように記す.

\begin{displaymath}
M=\{\ m \ \}
\end{displaymath}

この定義からはじめて,基数、順序数、整列集合等の概念を得,こうしてカントールは集合論を建設していった.19世紀末のことだ.

カントールの定義からいえば,あらゆる集合の集合もまた集合になる.「集合」は「はっきりと限定されかつ分離された直感または思考の対象」であることには違いない.

しかし,このような集合を考えるといろんな矛盾が生まれることが知られてきた.

例 0.1.2        あらゆる集合の集合を$A$とする.$A$の部分集合の集合$2^A$は,それ自身も集合であるから$A$の要素である.つまり
\begin{displaymath}
2^A\subset A
\end{displaymath}

したがって

\begin{displaymath}
\vert 2^A\vert\le \vert A\vert
\end{displaymath}

ところが,定理4より

\begin{displaymath}
\vert A\vert<\vert 2^A\vert
\end{displaymath}

これは矛盾である.

拓生  確かに.自然数の集合の部分集合の全体でも,濃度は実数と同じ$\aleph$になるのだから,まして,集合の集合といえば,世界のすべてを要素とするあらゆる集合のそのまた部分集合の全体ですから,ちょっと考え及びません.

南海  今度はうんと身近な例を示そう.

例 0.1.3        都市の市長がその街に住んでいるとはかぎらない.ある国で,市長を務める市に属さない市長をすべて集めて,特別市とすることになった.さてこの特別市の市長は,この市に属するか.

拓生  特別市に属するとする.特別市は市に属さない市長よりなるので,この市長は特別市に属さない.特別市に属さないとする.特別市は市に属さない市長をすべて集めたのだから,特別市に属さないということは,その市に属することになる.

いずれにしても矛盾が起こる.

南海  この矛盾の本質的なところを取りだせば,次のラッセル(Bartland Russell 1872〜1970)の逆理になる.

例 0.1.4        $X$を,それ自身を要素に含まない集合$x$の集合とする.つまり
\begin{displaymath}
X=\{\ x\ \vert\ x \not\in x\ \}
\end{displaymath}

このとき,
\begin{displaymath}
X \in X \quad \iff \quad X \not\in X
\end{displaymath}

となり矛盾である.

拓生  先の市長の矛盾と同じです.

南海  おそらくカントールは 例0.1.2 のことに気づいていたに違いない.このような集合論の矛盾は,19世紀末の数学世界に大論争を巻き起こした.数学に危機が叫ばれ,やがて数学の基礎への反省から,数学の基礎そのものが,考える対象となっていった.

次節で述べるように,ユークリッド幾何に対する非ユークリッド幾何が見いだされて以来,数学体系自体を考えることの重要性が認識された.

こうして,19世紀末から20世紀初頭,数学者たちは数学の厳密な基礎づけを試みる. フレーゲ(Friedrich Ludwig Gottlob Frege, 1848〜1925)は,著作『算術の基本法則』のなかで,数学を,カントールの集合論を中心にすえて,論理学によって基礎づけようと構想していた.

このフレーゲの構想は,1902年6月16日,ラッセルがフレーゲに当てた手紙によって破綻する.フレーゲ自身は,『算術の基本法則』第2巻の補遺(1903)の中でこう述べている.

学問的著作に携わるものにとって,みずからの仕事を完遂した後に,それが土台から揺るがされる事態に逢着することほど望ましからぬことはない.この巻の印刷が終わろうとしていたそのときに,バートランド・ラッセル氏から送られてきた手紙によって私が立たされることになったのが,まさにそうした状況であった

ラッセルから送られてきた手紙に書かれていたのは,例0.1.4 だったのである.

このような数学の危機は放置できない,これが多くの数学者の,そして知性一般の認識となっていった.物理学ではアインシュタインの相対性理論と,プランクやボーアの量子力学が登場し,ニュートン以来の世界認識の枠組みが大きく揺らぎ,そして新たな枠組みへと飛躍しつつある20世紀初頭のことであった.

ときに世界は,第一次世界大戦と向かい,その一方でロシア社会主義革命へと大きく転換しつつあった.危機の時代に,数学の危機,である.数学者がどれだけそれを認識していたかは別の問題であるが,数学の危機は西洋近代文明の危機そのものだった.

カントール自身は晩年,多くの論敵やクロネッカーのような大御所達の非難におしつぶされ,精神的にも苦しみ,精神病院で最期をむかえねばならなかった.1918年1月6日,享年72才であった.

集合論に対する非難のなかで,カントールは,

数学の本質はその自由性にある.
といった.これはまさに悲痛な,しかし確信に満ちた言葉である.

拓生  何かいい言葉ですね.

南海  いろんな苦しみをかかえている高校生の皆さん.この言葉から生きる勇気や力を受けとることができるのではないか.


Aozora
2013-06-16