つぎの一文は、ブログに載せたものである。
追悼、亀井豊永君 2011.1.10
『数学対話』の「デザルグの定理」第1節「メネラウスの定理再考」は,1966年の京大の問題を対話のきっかけとした.その解3のところで「高校から一緒に受験した友だちと試験が終わってから話していると,彼は『三行で済んだ』というのだ」と紹介したその人,亀井豊永君が2006年9月3日になくなっていた.「なくなっていた」というのは今知ったのだ.
1966年,京大理学部を同じ高校から3人受験した,その一人だ.高校は天王寺にある大阪教育大附属.校区もなく彼は京都市,私は宇治市でどちらも京阪電車で通学していた.環状線の京橋駅でも出会うことがあった.教養部ではときどき顔をあわせたが,専攻が違ったので北部にいってから会ったことはない.入試問題の別解に驚いたこと自体,塾で高校生に教えはじめて思い出したので,彼にこのことを話したこともない.彼にとってはあまりにも自然で当然な解法であるので,その言葉がこちらの印象に残ったことも知らなかっただろう.彼はデザルグの定理を,知識としてではなく,その内容で知っていたのだ.
今年も,冬期講習のM2Wでその問題をやった.予習した人は皆ベクトルかメネラウスの定理で解いていた.その解答を確認したうえで,彼の「三行で済んだ」という話しをする.そしてどうやるんだろうと,みなで考える.気づく人がいるときもあればいないときもある.10日の夜,この授業の整理をしていて,何となく彼の名前をネットで検索してみたのだ.そうしたら「地磁気センターニュース」に訃報と追悼文が出ていた.知らなかった.2002年にM2Wを開講し今年で十年だった.この間この問題は使いつづけた.その死も知らないままに彼の話を数年してきたことになる.そこで2007年に送られてきた高校の同級名簿を見ると,確かに物故となっている.
彼もこの時代を精一杯生きたのだ.それは「地磁気センターニュース」を読めばわかる.「家業を手伝う傍ら、非常勤講師として」とある.なかなか常勤の職がないなかで,研究を続けたのだ.荒木徹京都大学名誉教授が
日本の大学のシステムでは、彼の働きに見合う処遇が出来なかったが、彼は頑固に自己流を貫き、国際的に高い評価を得た。彼の精神は、死の直前まで安定していて、いつも職務を気にしていた。病んでなお仕事への情熱を持ち続けながら逝かねばならなかった彼の心中を思うと涙を禁じ得ない。一途さが周囲を困らせることもあったが、彼を失って改めてその穴を埋めることの困難さに気づき、学問界への無私の貢献の大きさに頭が下がる。
と書いておられるのは心うたれる.要領よく生きるということとは無縁に,ひたすら土台のところを作り続けたのだ.その貢献が国際的には認められていたというのは嬉しいことだ.
この十年間,M2Wを受講してあの問題に触れた人,このように生きた人がいたことを覚えておいてほしい.授業のなかで「どうしてこれに気づいたのか聞きたいよな」といったが,それはもうできないのだ.もっとも彼は「そんなの当たり前ではないか」としかいわないだろうが.物静かで,いつも少し背をかがめていた.人間の出会いと別れは不思議なものである.いちどくらい話しをしておきたかった.改めてあのときあの解を教えてくれたことに感謝し,冥福を祈る.
その後、荒木先生から次のようなコメントを頂いた。
荒木 徹 2011/07/30 14:29
南海先生:亀井豊永君の追悼文を地磁気センターニュースに書いた荒木です.
2年ほど前に「亀井豊永氏追悼文集」を作りました.pdfファイルでお送りできますので,ご希望でしたら,メイルアドレスをお知らせ下さい.
南海 2011/07/30 17:24
荒木先生.ご配慮ありがとうございます.本名にてメールしましたのでよろしくお願いします.