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地域と共生

  一九六八年頃から、大きくは七〇年に向けた人民闘争の高揚を背景に、部落解放運動が激しく闘われていた。国家権力によって無実のまま獄中にあった石川一雄氏を解放しようとする闘いを一方の軸とし、生活に関する諸権利を獲得しようとする地域闘争をもう一方軸として闘われていた。

   兵庫県は大きい県であり、山塊を背骨としそれを越えていけば互いに海に通じるという地勢は日本の他の県にはなく、瀬戸内海から日本海まで気候と風土は変化に富んでいる。この兵庫県には、都市には都市型の農村には農村の被差別部落がおしなべて形成されていた。姫路の北中皮革争議のころから連綿と続く部落解放運動の歴史があった。また勤務評定反対闘争では阪神間の学校で初期の部落解放運動と結びついて激しく闘われてきた。それを前史に六〇年代半ばから再び困難な闘いが開始され、六〇年代末には高校での差別糾弾闘争へと発展していた。それは同時に地域からの解放同盟支部の組織化と、組織を得た大衆の闘いへの立ち上がりに続いていた。

   部落のもっとも切実な要求の一つが教育要求である。部落解放同盟芦屋支部もまた、七〇年代初頭に結成されるやただちに教育要求を軸に闘い、教育条件の改善として文部省の基準を上回る教員定員を勝ち取っていた。私はその拡がった定員枠に伝があって採用されたのである。

   教員になってすぐの一九七三年秋、地域ではもっとも解放運動が高揚していたときであった。部落研の生徒らと十一月二十七日に東京・日比谷野外音楽堂で行われた狭山差別裁判糾弾集会に参加した。狭山裁判はその一年前、当時の東京高裁井波裁判長が定年退官するに当たって早期結審と死刑判決を目論んでいたのに対して、解放同盟や学生の実力闘争でそれをうち破ってきたのである。この集会は新裁判長のもとで公判が再開されるのを機に呼びかけられたものであり、主催者の予想を大きく上回る参加者があった。無実は明白であるにもかかわらずひとりの部落の人間に死刑判決を出そうとする国家の非道に対して、闘うものの生命の奥からの連帯感一体感が会場をみたしていた。私のような学生あがりの若者はそれだけで感動していた。

   だがその後解放運動は急速に改良主義に方向転換していった。翌七四年五月の明治公園での集会にも行ったが、これは気の抜けたものだった。この背後には、日本社会党の社公民路線への転換があり、日本の大衆運動が七〇年代の高揚から急速に解体されていく端緒であった。公明党や民社党の焦点のはずれたあいさつがこの集会の内容を決めていた。

   この当時なぜこうも変わるのかわからなかった。大阪では、社公民路線への転換に反対して、帖佐義行さんが社会党を離れたのもこのころであった。後に、帖佐義行の晩年、親しく交流したなかで、このころの顛末を詳しく知ったが、このとき知るよしもなかった。 このような全国的な右傾化のはじまりの中で、地域では多くのことを学んだ。教科を教える他に取り組んだのが障害生徒の高校への進路保障だった。今でこそある程度受け入れられているけれども、当時は全国でも初めての試みであったのではないだろうか。これを生みだしたのは部落解放運動とその教育への要求であった。新米の教員であったが、先頭に立って取り組んだ。在日朝鮮人生徒、障害生徒、被差別のもとにあるいろんな生徒を受け入れ、一般の生徒の心を開き、共生のなかで教育を試みたのだ。

   行動が先行しながらも、その試みの意味を在日朝鮮人生徒 K を通して深く考えた。私は K の姉を担任していた。彼らは在日朝鮮人三世で、祖父母が日本の植民地支配の時代に土地と仕事を奪われ、仕事を求めて日本に渡らざるをえなかった。祖父は当時もう亡くなっていた。父母は水道関係の力仕事を続けてきていた。同じ朝鮮人家族が何軒か寄りそって生活していた。父母は戦後働きずくめの生活で、もう一人の妹との三姉弟は祖母に育てられた。弟はただ一人の男の孫ということで祖母がかかりきりで育てた。

   姉の担任になってはじめて家に行ったとき、祖母は姉のことよりも弟のことが気がかりなようすであった。彼が言葉を覚えた最初の相手はこの祖母である。しかし祖母は日本語が不自由で、彼はあまり同じ世代の日本人の子供と遊ぶこともなかった。その結果、彼は日本語もできず、かといって朝鮮語もできないままに大きくなった。

   子供が言葉を意味あるものとして覚えるときに大きな力となるのは、母が子供を寝かしつけながら話して聞かせる物語である。彼の親はその時間がなく、祖母には時間と語るべきことがあったが、言葉が足りなかった。彼には母語がしっかりとは形成されなかった。小学校では当然に勉強はできなかった。教師の言っていることが十分にわからず、教師もまた彼のことがわからなかった。中学では障害児学級に入れられた。中学から説明されたとき、母親は何のことかわからないままであったという。彼は何か特別に手当すべき障害があったのではない。学級でのお荷物になったのである。

   しかし彼は高校へ行きたい一心だった。中学を訪問したとき彼が姉の担任の私の所に寄ってきて「高校へ行けるか」と聞いたのが忘れられない。日本は敗戦後「教育基本法」ができ、すべての子供の平等な教育権の保障がうたわれたが、法律は法律にすぎず、部落差別、民族差別、障害者差別などによって教育権を奪われた子供たちの教育保障は放置されたままであった。親たちが同じ思いを子供にさせるなと立ちあがって、やっと事態はすこしずつ動き始めていた。

   そのなかで中学校も彼を障害児学級に入れてきた意味を問い直し、三年生は普通学級に戻り、ようやくに私の高校へたどりついた。「普通学級」だの「障害児学級」だのというのも差別そのものであるが、当時の言い方のままにする。 彼と同じ学年で、はじめて普通高校に来たある障害生徒は高校へ来て最初に詩を書いた。

        ぼくは、やりたいことがたくさんある。
        絵をかくのが好きです。
        字をおぼえて、本を読みたい。
        ちえとちしきときおくりょくと自由がほしい。

   これは K の気持ちでもある。こうして K の高校生活が始まった。とにかく勉強がわからないなかで休まず学校を続けた。字を覚え計算ができるようになり、自分の考えがいえるようになった。そして、神戸の靴工場に就職していった。その後かわいがってくれた祖母の死、家の火事、かたまって住んでいた何件かが焼けた。そしてあの大地震である。工場は焼けてしまったが、その後働き口を見つけ家族とともにがんばっていることまでは伝え聞いている。

   このような試みが七〇年代後半から八〇年代前半にかけてこの地で行われてきた。これはまさに六八年の闘いではないか。六八年の闘いは、単に都市の青年学生のものであったというよりも、このように近代日本の中で声を潜めて生きてきたものがはじめて声を上げた闘いであったのだ。 しかし、八五,六年頃、ちょうど行革がいわれ始めた頃、地域の教育委員会は「これまでの障害児教育は間違っていた。普通高校に障害生を入れてきたが、十年経って全国どこにも広がらなかった。」との結論を内部的に出し、学校つぶしに走り始めていた。

  「解放教育」という言葉は行政も使っていた。それは運動の側の力が強いがゆえであった。「解放」とは「差別し抑圧するもの」からの解放であり、闘いの相手を指示しまた考えさせる。それは官僚機構には危険な言葉であった。運動の後退期にこの言葉は「人権教育」に置きかえられた。闘う教育運動が偽善的な人道主義に置きかえられた。この流れは今日につづいている。

   ここで十年取り組んできた方向と考え方こそ、基本的に、今日の社会における障害者解放教育運動としてあるべきものと確信している。同時に、地域のなかで、障害児教育と障害者解放運動の方向について、実践的にも考え方においても、対立と論争があった。それは障害者差別とは何か、障害者解放とは何か、そしてその運動はいかにあるべきかをめぐる基本的な問題であった。行政の進める分断・隔離政策と共同して闘いながら、内部においてはおおいに論争し、地域の教育運動を力強く進めていくことを願ってなし得ることはした。


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