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数学と孤独

  学生時代、私は現代日本語の人間の言葉としての荒廃というものを強く感じていた。この荒廃の現実の前には、荒廃を自覚してとらえないどのような文化的な仕事にも打ち込めないようにも思った。私は大学の数学科に籍は置いていたが、このような荒廃した日本の現実の下で数学をして何の意味もないと思われた。客観的に若い自分をふりかえれば、ここには自分の数学的な才能の無さをこのように考えることで補おうとしていた側面がある。イソップ物語の『キツネとブドウ』である。私自身に数学の才はなく、すべてを捨てても数学をやるというだけのものを内部に持てなかったということが一方にある。だが他方、日本の大学で数学者であろうとすれば、現実の関係において人間性をどこかで断ち切らなければ不可能だった。

  そもそもなぜ大学は数学科を選んだのか。高校時代は数学と日本語だけしか得意なものはなかった。日本語が得意といっても、学科のうえではただ一度言葉の用法に関するテストで飛び抜けた点数を出して教師を驚かした以外には何もなかった。哲学書を乱読した。高校二年の時にラッセルの『西洋哲学史』を学校の図書室から借りっぱなしで没頭したのを覚えている。しかし、西欧社会科学に対しては、最後には見ている自分が対象から抜け落ちてしまうではないかという基本的な感覚があって自分の思想とはならなかった。それを実践で越えるというには、まだ余りにも実践への必然性に乏しかった。小ブルジョア知識人になりかけのものとして、数学で自由を得たいという考えから数学科に進んだのだった。西欧数学の土台にあるギリシア哲学に強く惹かれた。数学を学の柱とする哲学が日本の大学にあれば、その方に進んでいた。しかし日本の大学の哲学は「文系」であり、それはやはりまやかしであり、直接数学をするしかなかった。本当は理学としての哲学をやりたかった。しかしそういう学問分野は日本の大学にはなかった。真の自由を得んとして数学をやるのだと考えていた。

  こうして大学生になったが、六六年から七〇年の大学闘争のときには単なる一般学生であったに過ぎない。私は、自分と世界の関係を自己と自然の関係ではとらえても、それ以上ではなく、一般的な政治性のない社会意識の乏しい学生に過ぎなかった。とりあえずは数学と禅にしか目は向いていなかった。一九六六年十月二十一日、総評を中心とした五十四の単位労働組合がベトナム戦争反対、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対して統一ストライキを実施した。このときは、学生の集会の末尾について参加したが、それ以上に自ら何かをすることはなかった。学生のあいだ私は結局は運動の同伴者に過ぎなかった。

  一九六七年十月八日の羽田での佐藤首相南ベトナム訪問阻止闘争で、私の一年下の工学部学生山崎博昭が殺されたとき、学内の雰囲気は一変した。佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するため中核派、社学同、解放派からなる三派全学連を中心とする部隊は羽田周辺に集結。はじめてヘルメットと角材で武装した。社学同、解放派部隊九百人は鈴ケ森ランプから高速道路上を進み、六〇年安保闘争以来はじめて機動隊の阻止線を撃破し実力で突破した。さらに空港に通じる穴守橋上を固める機動隊と激しく衝突、橋をふさぐようにおかれた七台の警備車に放火するなど現場は大混乱となった。また、千人の中核派部隊は弁天橋に進んだ。迎え撃った機動隊を撃破し、激しい放水の中、弁天橋上で警備車を奪うなど激しい乱闘を繰り返した。この闘いで中核派の京大生山崎博昭が死亡、重軽傷者六百人あまり、逮捕者五十人が出た。街頭での反体制運動で死者が出たのは、六〇年安保闘争時の樺美智子以来のことであった。

  この日から一般的な学生の意識は一変した。社会的にもに多大の衝撃を与え、同時に警察力に押え込まれ沈滞していた学生運動が再び高揚する契機となった。大義は学生の側にあった。大義のある実力闘争がいかに大衆の心に火をつけ、学内の雰囲気を一変させ、問題を根元的に考え、生きることをさせるか、ということを知った。歴史の力というものをつくづくと感じる。その土台には、ベトナムにおける民族解放闘争があった。戦後世界における超大国アメリカの覇権をうち破り、今日に至る資本主義の混迷の始まりとなったベトナム民族解放闘争、この力が、日本の青年の心に火をつけ、その実力闘争が、私のような一般の無党派学生の心にも火をつけた。問題を根本的に考えるということ、時代がそのように学生を駆り立てていた。

  全共闘運動が大学内に及び、大学での学問というものを問題にし始めたのは、一九七九年一月十八、十九日の東大安田講堂攻防戦の後であった。一月二十四日に法経一番の大教室でおこなわれた奥田総長との大衆団交のときに京大全共闘が出した、東大全共闘代表・山本義隆の名によるアジビラが今も手元にあるが、実際あの闘いのころから足下から問題を考えるようになった。だが、大学の全体はちがっていた。一月二十一日、大学は、この日正午、学生による封鎖がおこなわれていた学生部で開かれる予定であった決起集会に参加しようとした他大学の学生の学内立ち入りを禁止し、「京大を京大人の手で守る」という名分のもとに教官、職員、院生、学生、生協職員の手で正門にバリケードを築いた。「東京で闘った活動家が大挙京都に来る、外人部隊から京大を守れ」ということで、いわゆる民青や多くの一般学生らが、逆にバリケードを築いた。私もデモで中に入ろうとして放水されたが、そのとき「お前が」と私でさえ驚くほど学園問題に関係ないという態度であったものまでが、逆バリケードのなかにいた。彼らは三高寮歌を歌っていた。嫌いな歌ではなかったが、三高寮歌があのように大学の既成の体系を守ろうとしたものによって歌われてからは、もう歌ったことはない。あのとき逆にバリケードを築いて「京大を守れ」と行動したものは、明治以来の国家とともにあった京都帝大を守ろうとしたのだ。

  私は当時なんとも悲しい気がしたことを覚えている。私があの学園闘争が問題にしたことを本当に自分の問題としてとらえたのは、もっと時間が必要だった。まだ自分の内部から近代日本の大学の学問を対象化することはできていなかった。しかしとにかく、ここでおこなわれている「学問」が「学」ではないことを直感的につかませる最高の反面教師だった。

  比叡山の麓、瓜生山(12.11)

  本当にその意味を理解しはじめたときにはすでに闘争は高揚期をはるかに終えていた。七〇年を境に七〇年闘争の高揚は退潮した。そのとき、ほんの少しのものが腹を固め人生を変え、地域や生産点の活動家としての道を歩み始めていた。心優しくしかも豊かな感受性のあるものは大学に残らなかった。

  もちろん私もまだ生き方が定まらず大学院に潜り込んだのであるから、時間を稼いだにすぎないのだが、とにかくいつのまにか誰も京都からいなくなった。大学は正常化され何もなかったようにあるものは学者を目指し、あるものは大企業に就職していった。

  私も今はそれなりの自分の経験もふまえて、それぞれの人生の選択を認めることができる。が、当時はこれは何だと思うことが少なくなかった。立派なことを言っていたものがいつの間にかいなくなり、たとえばあとで聞けば外国に留学、帰ってからは大学で働いていた、といった輩ばかりであった。あるいはまた、寮にいたときはいっぱしの活動家であったが、卒業と同時に当時脚光を浴びつつあった電算機の会社に就職していったというものもいた。

  ほとんどのものは実は人生を変えなかったのだ。今に至るも当時の志をもって実際に生きているものは少ない。少ないけれどもいる。大学をやめるかどうかとか、それまでの人生を変えるとかいうが、それは要するに小知識人の問題に過ぎない。ただ七〇年闘争のなかでは、もっとも人間的で良心的で誠実でまた行動力のあるものが、それまでの大学体制を前提に考えていた自分の人生を変えたのは事実である。人間味があり学問的にも優れたものほど、このときに大学を離れた。そのことは近代日本国の大学の学問体制が、創造性があり学問をきり拓いていく可能性のあるものを結集することができなくなったことを意味している。

  青年のなかでもっとも良心的なものを結集し得なくなったということは、その体制、つまり大きくは近代日本であり、小さくは戦後体制であるが、これが後退過程に入ったことを意味する。六八〜七〇年闘争はその画期となった。六〇年安保闘争では、知識人は知識人として闘いまた知識人に帰っていったが、七〇年はそうではなかった。 これが欧州やアメリカ、そして日本などで同時期に起こったということは、奴隷貿易以来の西洋文明が再び転換する時代に入ったということであり、その端緒となったということである。四〇年を経てそれは現実のものとなりつつある。

  多くの人間がこのなかでどのように生きるのか悩んだ。私にもいろんな友人がいた。今にして思えばもっと色々話せば良かったということも多くある。身近にいた人の悩みをなにも聞いてやれないまま永別した苦い思い出もある。私を含めて当時はみな自分のことで精一杯であった。

  

  円空観音模写 1971年夏

  一九七一年三月、宇治を離れ京都北白川に住む。比叡山の麓にある深い木立の瓜生山も近い白川女の里であった。家を出て、故郷で試行錯誤したすえに行き詰まった自分を考えなおし、もういちどやり直そうとした。京都北白川に下宿して改めて日本における数学というものを考えた。

  数学の真髄はギリシアの精神である。シモーヌ・ベイユが地中海文明について考察している文書のなかにあるギリシア精神の輝きに、あの当時強く惹かれた。地中海文明はアフリカ、アジア、ヨーロッパの混成文明である。ギリシア文明が西欧文明の起源というのは近代ヨーロッパが作った虚構である。ベイユがその文書のなかで指摘し、またハイデッガーが指摘するように、後期ギリシア思想は大きく変転した。当初のギリシアの混成文明の輝きから、二元的世界観にうつり西欧物質文明を準備した。その辺りのことはまだ分かっていなかった。私にとってギリシアはただただ輝く精神であった。少なくとも内部からの必然で発展してきた文化を土台とする文明が西欧にあり、数学もまたその文化とともに内部から発展してきているがゆえに、人間の文化として人生に意味を与える力を持っていると思われた。

  日本を見るに、日本の現実の数学はまったく文化の根を持っていなかった。「文化の根」ということが、人間が生きるうえで人生に意味を与える土台にあるものと思われた。そのことに気づいた者は数学のみに没頭することはできず、日本では数学者たりえない。日本の数学者は数学の社会的における存在意義には目をつむり、自己を文化の土台から切り離して西欧に直結させないかぎり、存続し得ない。

  例外は岡潔だった。日本の数学者にして普遍的な数学をうち立てていた。その数学は彼の世界のなかでは確かに根をもっていた。だがその世界は余りにも高く、遠かった。彼の日本文化に対する発言は情緒の流れとして理解できた。高校三年生の秋に読んだ小林秀雄との対談『人間の建設』以来、岡潔の直感は私の内部と響きあうものがあったし、強く惹きつけられもした。しかし、その発言が世の中ではたす客観的な役割は危険だった。賛成はできなかった。

  このようななかで、多くの数学書を読みあさった。しかし打ち込むことは出来なかった。生の数学に直面することもほとんど出来なかった。今この年代になって省みれば、あれほど多くの時間を費やしながら、なぜもっと数学そのものに触れようとしなかったのか。

  自分自身が直面していた「日本語を固有の言葉とするものが数学をする意味はあるのか。技術の基礎としての数学はあり得ても、人間が生きる文化の背骨としての数学は、非西洋ではあり得ないのではないのか」という問題が、実は学園闘争が問題にしていたことそのものであり、さらにその土台にあるのは近代日本の矛盾そのものであることが見えてきた。

  今から考えれば、自分の数学の才能の無さに対し、問題をこのように一般化することで乗りこえようとしていたとも言える。それはまちがいない。一方、その結果、数学の存在を考える視点が深まっていったとも言える。これは問題の二つの側面だ。いずれにせよ、たとえどのように問題を大きくとらえようと、出口なしの壁であることには変わりなかった。

  ひとり心を研ぎ澄まし考えていた。自分なりに数学に決着をつけようと自分で選んだ主題に沿っていろいろとやっていた。同時に毎日毎日日記を書き、下宿のまわりを歩いていた。円空に強く惹かれその彫刻を何枚も模写した。円空には失われた竈のにおいがあった。ほの暗い竈の上の棚の上で微笑んでいるように感じた。彼も黙って山河を遍歴し彫刻を残していったのだ。何日も誰とも話しもしないということもあった。夏が過ぎ数学の試みは何も結果が出ないままに区切りをつけていた。我流で何かができることはなかった。数学の問題には向きあえないままであった。指導者に出会わなかったとか、そのような理由は外因論である。当時の自分には、本当のところ数学に出会うだけの力がなかったのだ。

  自分なりに数学に出会うには、数学教育の経験を経なければならなかった。


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