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不安と求道

  七〇年前後は世界的にも青年学生や労働者の運動が高揚した時期であった。当時多くの青年が闘争のなかで人生を真剣に考え、少数の者が燃焼しつくし、多くの者が内にいろんな問題をかかえつつ現実と妥協し、その内のまた少しの者がねばり強くなし得ることをしてきた。自分などは当時の闘争に遅れて参加し、黙って人生を少し変えたひとりにすぎない。

  あの時代を数学科の大学・大学院生として過ごした。しかし実際のところ数学者であったことはなかった。若いときからよく、何をしているときにも不意に存在の不安とよぶほかない不思議な感覚におそわれる瞬間があった。その意識がおそうと、たちまちそのときしていることが無意味なことに思えるのだ。だから中学・高校の頃に上昇志向を一方でもって数学を志したが、それに没頭してしまうことのできないものをかかえていた。

  

  宇治興聖寺の祖師堂(02.03)

   このような意識をかかえて、私は日本の宗教者とりわけ道元に強くひかれてきた。高校生から大学初年のころ『正法眼蔵』を持ち歩いて読んでいた。そのときいちばんよくわかったのは,道元の「非情の求道」の姿勢だった。いざというときにこの道元の姿勢が自分のものごとを考え決断するときの姿勢を規定してきたように思う。学生時代には自分なりに道元の非情の求道を歩もうとした。

  道元にひかれたのは故郷宇治にある興聖寺の存在が大きい。興聖寺は宇治川東岸の山塊の麓にあり、道元を開祖とする曹洞宗の寺だ。もとは一二三六年に道元ゆかりの伏見深草に建てられたが途中で廃絶。一六四九年、淀城主の永井尚政によって現在の場所に再興された。ここは小さい頃からの遊び場所であり、また興聖寺の祖師堂のまえの石段は高校生の頃から考えごとをする場所だった。

  二回生になった一九六七年五月、大学で臨済宗京都相国寺の在家居士の会である智勝会を知り,相国寺僧堂の故梶谷宗忍老師に参禅、相国寺専門道場の僧堂で禅の修行を始めた。その夏には播州赤穂の興福寺で合宿もおこなった。合宿を終えた感想を十月に書き、智勝会の会誌『智勝』第一集(昭和四十三年四月)に寄稿もしていた。

  日曜ごとに雲水とともに参禅、赤穂の寺での合宿では朝から晩まで座禅に明け暮れた。釈迦が成道したのは十二月八日と伝えられ、それを記念して僧堂では十二月一日から八日の朝まで、昼夜坐禅する臘八の接心会が行われる。相国寺の臘八の接心にも参加させてもらった。座禅するときは足に負担がかからないように学生ズボンだけである。ズボン下のたぐいは身につけない。早朝まだあけぬ時刻に僧堂で三拝すると寒さに足が大きく震える。しかしそのまま坐にはいり、呼吸を整えていくと震えはおさまり寒さを感じなくなる。

  禅の呼吸法、精神と肉体を統一的に統括することなど、これをこの時に体にたたき込んだことは私の大きな財産となった。学生は最終の日だけ徹夜したように思い出すが、厳冬の僧堂で夜通し座禅をし朝をむかえたことなども忘れがたい。

  また老師は参禅の後におこなう講話である提唱を『正法眼蔵』をもとにおこなっていた。相国寺の僧堂の奥の東屋での提唱の時間は、長い歴史の中で継続されてきた営みの蓄積を感じさせたし、別の時間がそこには流れていた。そのこと自体は確かだった。

  道元は私の愛読書であった。わからなかった。しかしにもかかわらずあれだけ熱心に『正法眼蔵』を読んだのは、道元の求道者としての厳しさと人間性に強くひかれたからであった。非情の求道精神、この厳しさに惹かれ続けた。今も変わらない。存在の不安に立ち止まるのではなく、「この世界は存在しない。すべては空である」と否定し続ける、否定して否定する、心は仏教から学んだ。その能動的な否定の行き着く果てに顕れる世界を垣間見ながら、今日まで来た。

  老師は「筋がいい。期待している」といってくれた。臨済宗の禅の修行は、座禅と老師の提起する宗教上の問いを受けとめ問答を通して一段一段自己を高めていく。一年余り修行したときにも、自分自身の境涯の低さを知っていたし、問答が形式に流れていることも承知していた。老師がそれを見破り、喝破し自己を引き上げることを望んでいた。しかし、老師はそのまま私に一つの段階を許し、無字の公案から隻手の音声の公案に進ませた。何かおかしいという感慨が残った。

  生意気であり若気の至りであったが、当時次のような思いをいだいた。当時の覚え書きである。第一に、ここで行われていることは真理なのか。その問答(つまりはその宗派の基本的日常活動)は形式に流れ形骸化していないか。第二に、偉大な宗教者の自己の生命をなげうっても真理を求め真理に生きようとした、その求道精神を今日の場で継承しなければならない。そうなっているか。第三に、真理は自己の現実を変革するはずである。自己の変革とは自己の存在するこの世界の変革と一体である。真理はやはり世をかえる実践のなかで追求されねばならないのではないか。それが本当の菩薩道ではないか。

  ほんとうはこれは自分の問題だった。ここには自己の内からの求道の切実さが欠落している。現実の禅がどのようなものであるかという以前に、内部に切実さがあれば、疑問を師にぶつけるなり、別の師を求めるなりさらに進む方向があった。何を問うているのか、何が本当のところ自分の問題であるのか、私自身にわかっていなかった。問題を外部においたままである。問題を一度でも外においてしまえば、既成仏教の諸問題や堕落の諸相が目につくのは当然である。真理は外にはない。相国寺の仏教に真理がないという以前に、自己の求道の切実さを問うべきであった。当時はそれが問えないところに自分の限界があったのだ。

  六八年の学園闘争、全学ストライキのなかで寺から離れた。そのとき未練はなかった。ただこのことを老師にぶつけないままに寺を離れた。これが自分の未熟なところだった。どうして思いの丈を老師にぶつけなかったのか。自分のなかにやはり禅を心理主義的にとらえ、神秘体験を求めるところがあり、自分を捨てることができなかったのだ。梶谷宗忍老師はもうおられない。未解決の課題として残ってしまった。とはいえ、またわずかな期間のこととなったが、この相国寺禅堂での経験は生涯のものとなった。

追記。2012年7月14日、智勝会のOB会に出席。僧堂との再会を果たした。その日の日記。そしてその日の僧堂と方丈。かつて、左から2枚目の方丈で老師の茶をいただき、『正法眼蔵』の提唱を受けた。

 


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