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■帝国没落の時代 08/10/25〜11/17

(一)

  21世紀初頭の歴史を一言でいえば、帝国アメリカが没落する時代、ということである。

  2008年9月30日、アメリカ議会下院は金融安定化法案を否決。国家予算の四分の一およぼうかという膨大な税を投入してゆきづまった金融機関を救済しようとする法案は否決された。株価は暴落、世界恐慌である。この背後には、アメリカ社会をずたずたにひき裂き、アフガニスタン、イラクと戦場を拡大してきた金融資本に対する人民の激しい怒りがある。

  2008年9月14日、アメリカで4番目に大きな投資銀行であるリーマンブラザーズが破綻した。リーマンは、米の不動産相場の悪化を受けて商業不動産関連投資の損失が拡大し、デリバティブ資産の価値も下落し続けていた。他の金融機関への買収が国家主導で試みられたが失敗した。リーマンの持ち株会社は15日未明、破産申請することを発表した。

  1980年代後半からこの20年数間、国際金融資本は、デリバティブ取引などの金融操作によって一見繁栄しているかのように見えてきた。が、それはまさに砂上の楼閣であった。そのことがアメリカの2007年夏のサブプライムローンの破綻によって明らかになった。この日からいずれ金融危機が到来することはわかっていた。

  国際金融資本は新自由主義を掲げてきた。

  こうして世界大に搾取・収奪体制を張り巡らした。アメリカ本国はもとより日本をはじめとするいわゆる先進資本主義国の本国内に働いても生存すらできない貧困層を作り出し、また世界中に戦争と貧困をまき散らして資源を収奪、人間を収奪した。さらにあらゆる方法で貧困そのものからも利益を生みだし、債権の証券化でバクチ経済を作り出し、胴元としてボロもうけしてきたのである。

  帝国アメリカは、人口あたりで地球平均の何倍にも上る過剰な消費を行い、見かけの繁栄を演出してきた。それを典型とするいわゆる先進資本主義国の消費や浪費が地球の温暖化をもたらし、圧倒的多数の世界の貧困層を生存の危機にまで追いやっている。

  過剰な生産とその一方での搾取の強化、これは根本的に矛盾している。地球規模での生存すら脅かされた貧困の出現と世界的な購買力の低下、その一方での過剰消費を前提とした過剰な生産、この矛盾はもはや繕うことができない。その結果、周期的な恐慌が引き起こされ、マルクスの言葉通りの事態が進んでいる。

  帝国アメリカの過剰な消費体質や、金持ちになることが価値そのものという精神、自分たちが世界の中心だと考えそれを疑わない傲慢さ、そして現在のサブプライムローン破綻問題の本質がこのようなアメリカ資本主義それ自体の帰結であると考えようともしない鈍感さ。一つの帝国、一つの文明が終焉を迎えるときとはこのようにその中にいるものは気づかないまま事態がよりいっそう抜き差しならないところへ進んでいく。帝国アメリカのこのような生活文化は総体的なものであり、資本主義をそのまま肯定したなかでこれが根本から変わることはありえない。

  日本の進路に関する根本問題は何か。

  帝国アメリカからの独立を果たし、このような腐敗し堕落したばくち経済体制から脱却し、足を地につけ長い時間をかけてアジアの一小国としての節度ある世のあり方を生み出していくのか、あるいは帝国アメリカとともに没落するのか、これが根本問題である。

  当面の政治課題の真の争点は帝国アメリカからの独立をめざすのか否か、そのための準備を目的意識的にはじめるのか否か、である。新自由主義的世界観、価値観、生活様式、すべてにわたる問題である。

    私は、帝国アメリカの没落を確認しつつ、アメリカからの独立をすべての面で準備するべきだと考える。中国もインドもEUも国際政治の表とは別に、見えないところで帝国アメリカからの独立を準備している。いまだにアメリカに追随し、アメリカ没落後の多極化した世界で生きる備えをまったくしていないのは日本ぐらいなものである。帝国アメリカからの独立を準備せよ。これは火急の歴史課題である。利潤のためだけに一方的に労働者を切り捨てる企業は、いずれ歴史的に役割を終える。終えさせなければならない。

(二)

  帝国の没落の本質は何か。それを考えるためには産業革命以来の技術をふりかえらなければならない。

  技術発展の爆発としての産業革命

  人間にとって火は根元的なエネルギーであり、言葉は本質的な方法である。人間は、火を使い、協同して働き自然からめぐみを受け、言葉を獲得し人間となった。言葉を使い経験をまとめ、掘り下げ、伝え、智慧を磨いてきた。言葉を持つことによってはじめて人間は「考える」生命となった。

  協同し道具を用いて働き、自然から糧を得る。これは言葉によってはじめて可能である。道具が配置された生産構造が技術である。技術の発展は、一つの到達点として産業革命に至った。産業革命を考え方として準備したものは何か。それが、ニュートン力学とデカルトの近代的世界観である。

  かつて人間は、自然界から恵みを受けとるという段階から、世界を耕し実を成らせるという段階へ転化した。それが新石器革命であった。世界を改変してそこから糧を得ることのはじまりであった。その一つの到達点が産業革命である。産業革命によってその規模は巨大化した。世界を改変するために、自然の法則を対象化して認識し、具体的現実に適用する、これを最後まで進めたのが産業革命なのである。

  その思想と理論を準備したものこそが本質的にニュートンであり、デカルトであった。十八世紀の自然科学の成立は、デカルトの二元論をその根拠とした。ヨーロッパ近代は世界を物質世界と精神世界に分離したうえで、その物質面の探究に専念した。十八世紀に成立した自然科学は、時間と空間を物質が存在し運動する枠組みとしてあらかじめ前提した。これは、言葉によって人間が自然を対象化して認識した時以来育ててきた世界認識の型であり、ニュートン力学はこの人間の世界を認識する仕方の集大成であり、その極限であった。いわゆる「主観−客観」という認識上の図式は言葉によって人間である人間の認識にとって必然の帰結である。近代資本主義文明はこの必然性に根拠をもっている。

  しかし同時にそれは生命を物質に還元し、人間を個別の人間に切り離した。人間をばらばらにすることは、近代資本主義が人間の働くということそのものを冨の源泉として搾取するうえで、必要でありまた十分なものの見方であった。

  原子力と高度情報技術

  産業革命を土台とする自然認識技術の発展によって、ニュートン力学では説明できない現象がつぎつぎと発見された。1881年マイケルソンは光の媒質と考えられていたエーテルを検出しようとして失敗した。彼の干渉計は産業革命以降の技術なくして不可能だった。この失敗は逆に光速度不変の原理の発見へと繋がり、その思想的掘り下げのなかから相対性理論が生まれた。量子力学もまた同様に技術の発展なしには不可能だった。

  相対性理論と量子力学は、現象の時間・空間的かつ因果的記述に対する制約を暴露し、時空概念の絶対性を奪い取った。ニュートン力学が生みだした近代の生産技術は、逆にニュートン力学を乘りこえる事実の存在を人間に示した。それまでの「problematique(問いの枠組み)」が事実によって転換を求められたのだ。

  ニュートンの時間と空間を前提にする世界観の超越的枠組みは、相対性理論と量子力学においてとりはらわれ、その世界観は「発展する物質」としてのこの世界自体の認識を一歩一歩深めることを可能にした。相対性理論と量子力学は、時間・空間が物質存在と運動の前提ではなく、逆に物質が「運動しつつ=存在する」ことが、そこに時間・空間の「ある」ことである。このことを明らかにした。

  この思想と理論によって獲得されたものこそ、原子エネルギーであり、今日のいわゆる高度情報化技術である。半導体技術や超伝導技術の前進、コピューターと通信の劇的な普遍化の土台には、量子力学が基本思想と理論として存在している。これぬきにいかなる先端技術も不可能であった。電子や光子を1個づつスクリーンに向けて放つ技術は、量子世界の波動性と粒子性という二重性の具体的応用であり、中性子の回折干渉の応用や原子を1個づつならべる技術など、すべて量子力学が基礎理論となっている。二十一世紀になって実際に応用されはじめた、一〇億分の一メートルの世界の技術、いわゆる「ナノ技術」もまた量子力学ぬきにはありえない。

  相対性理論と量子力学によって人間は原子力エルギーという現代の火を手にし、高度情報化技術を獲得した。これは本質的には、かつて人をして人間とした、火の使用と言葉を生みだした有節音の獲得に匹敵する、根本的意義を有している。

  資本主義は技術を制御できない

  相対性理論と量子論、それに裏づけられた原子エネルギーと情報技術、それは近代合理主義がその理論的展開の果てに見出し生み出したその対立物だということである。この近代合理主義の根底には、人間を世界から隔て自然を対象化するという本性がある。その本性が産業革命を生みだし、産業革命の技術がもたらした新しい認識が、産業革命の土台にある近代合理主義と矛盾する現象を人間に伝えた。

  近代の合理主義は生命を物質に還元することで大きな結果を生みだした。物質への還元はまた、生物を個別の切り離されたものとして考えることを前提にしていた。しかし、その結果として遺伝子を物質的に扱い分析したとき、生物を個別の切り離されたものとする考え方とは正反対の事実が人間に示された。遺伝子の普遍性と環境を前提にした遺伝子展開の構造、である。遺伝子の普遍性は、いのちが一つにつながっていることを示している。遺伝子は単独で存在するのではない。一つのいのちを前提にして、発現する機能を変化させてきたことが判ってきた。

  近代とは近代資本主義の時代に他ならず、近代合理主義を実際に具体化するのは資本主義的生産関係である。資本主義は資本の論理で動く。資本の論理とは弱肉強食の拝金主義そのものである。

  近代合理主義は科学を生みだした技術を発展させたが、その結果、近代思想の枠を超える事実が発見された。相対性理論と量子力学と遺伝子学である。資本主義はこれを制御することができない。近代の枠のなかにある資本主義にはこれを制御する意思も能力もない。

  資本主義は市場を制御できない

  資本主義は本質的に放縦であり「神の手」としての市場を仮定しなければ調和を考えることもできない。しかし「神の手」等はない。自らを規制し律することができない資本に、近代を越えた技術の制御はできない。資本主義は「市場主義」や「大域主義」という普遍性の名の下に、働いた人からさちを奪い資本を増殖させる。さちを奪い資本を増殖させる場所、それが市場である。

  しかし市場という場における資本の行動は、弱肉強食、拝金主義の原理であり、金融商品を駆使して貧困をてこに富を収奪することでしかない。資本は本質的に何らかの商品を売らなければならない。ついには金融商品という虚構の商品の生みだしたが、それでもその根拠としての実体的商品、この場合はサブプライムローンで販売された住宅、これが必要である。しかし市場における収奪は大衆の購買力をますます奪う。金融商品の過剰生産と購買力の減少。この矛盾を持ちこたえることができずついに破綻したのが昨今の事実である。

  帝国アメリカは、金融資本主義を体現しその利益のために行動してきた。資本主義は目先の利益を優先する。この本質が、結局は帝国アメリカの没落を生みだしたのである。市場のやりとりを善とする世界に対して、さちを奪われる側の世界は、今日もさちを受けとるいとなみ自体に価値を見いだす。さちを受けとるいとなみこそが人間のいとなみであり、人生の意味である。その営みそのものが世の前に出なければならないし、今日の世界のあり方は必ずそのように転換されると考える。

(三)

  われわれはいま、帝国アメリカが歴史的役割を終えて没落する時代に生きている。こういうときは、大きな枠組で考えることが必要だ。思いきり大きな枠をとってみよう。

  どのみち、アメリカがかつてのような帝国としての力を回復することはもはやありえない。金融資本主義が操った泡沫経済の破綻からドルが基軸通貨でなくなるまで、一定の時間は経過するだろうが、結局はこの方向に進まざるを得ない。資源浪費のアメリカに依存した日本の輸出関連産業が、もとのように回復することはない。いま展開している事象は、産業革命以来の近代資本主義が行きつくところまで行った、その結果である。これもまた、いかに認めたくなくても事実で示されていく。

  経済は人生の目的ではなく、手段である。新しい価値観、新しい人間関係を築かなければならない。この問題を軸に新しい時代は動いていく。その展開はこれまでとはまったく異なる要因によってなされていく。その基本の方向性を明確にしなければならない。新石器時代に階級社会が誕生して以来今日まで、歴史は基本的に生産力と生産関係の矛盾に規定されて、いわば自然に、人間の意志を超えたところで進んできた。しかしこれからは違う。違わざるを得ない。階級社会は新自由主義にいたって行き着くところまでいった。

  ここからの活路は何か。人間にとって経済活動は方法であり手段であって目的ではないということを明確にし、人間の原理に立ちかえって目的意識的に人間性を高め資本主義的欲望を抑制し、人生の意味を生みだしていく。技術と生産はそれを支える方法である。この立場から、経済活動を人間が制御しなければならない。その土台のうえに新たな文明を創造していかなければならない。それはやはり新たな共産主義以外にない。言葉の問題ではない。歴史的に用いられてきた「共産主義」を、その内容を定義しつつやはり用いていきたい。

  長い人類の歴史のなかで、階級社会から社会主義を経て共産主義へ至る転換ほど根本的なものはない。それは新石器革命と対になった根元的な革命である。新石器革命で出現した階級が、新たな段階の革命において廃絶される。このような転換期は、すべての人間に、それぞれの条件のなかで、ものごとを根源的に考え実践することを要求する。

  この転換は、これまでの生物期のように、偶然による試行錯誤のなかから淘汰され道を見出すという方法でなされたり、階級期のように生産力の発展が歴史発展の人間の意志を越えた原動力であるという方法でなされるのではない。人間の自覚した目的意識をもった行動によって新たな人間関係が生み出され、人間が生きる意味をふまえた協働体を土台とする世がつくられる。国家もまたそのなかで役割を終えていく。

  われわれは人間の目的意識的な営みを信頼する。この目的意識性は、マルクスによって現実のものとされた。マルクスが到達した段階を引き継ぎ超えていかなければならない。人間は社会的人間として自らを形成したが、その内実は「階級社会的人間=生産関係によって組織される人間」であった。ここから出発し、そして、「階級社会的人間」をのりこえなければならない。これは言葉によって言葉を越えた人間の新しい協働の世界、資本主義の暴力を制御する智慧をもった新しい人間の関係とそれを可能にする場を生みだすことと同値である。

  新しい歴史の始まり

  客観的事実として、人間は、生物としての人から発展し、技術の進歩を土台に生産力を発展させ社会を変革し思想を深め、ついに、マルクス主義を獲得したことによって、世界に対する目的意識性と能動性を最終的に生みだした。人類ははじめて、「客観的歴史」の法則と目的意識的活動を統一した人生を生きることが可能になった。人類史の新しい段階、それを共産主義と言うならば、共産主義を生みだす可能性が準備された。

  現代の共産主義思想とその実践、歴史に対する目的意識性、これは近代資本主義のなかからそれを乗りこえるものとして生まれた。『今までの哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけであった。だがそうではなくて、もっとも大切なことは世界を変革することである』(マルクス『フォイエルバッハについてのテーゼ』1845年)。このマルクスの言葉が今ほど輝いている時は、実は他にない。

  この可能性は二十世紀にロシア革命、中国革命として現実性に転化した。しかし、その試みは少なくともいったんは挫折した。しかしその試みが終わったのではない。新自由主義という新しい段階の資本主義は、世界を一つの市場としてつなぎ、搾取の場とする。この場は同時に搾取される階級の場である。この場において新たな歴史をつくる人びとが形成される。人間は言葉によって協働して生きてきた。階級を根拠とする言葉による繋がりを準備しなければならない。歴史が求めていることは可能なことである。新しい歴史は必然である。

  第一、 西洋近代資本主義、とりわけその土台である産業革命は、根本的にギリシア後期のプラトン以来の考え方を最後まで進めることで達成され、その世界への拡大が近代であった。しかし今やそれは地球という有限な世界のなかで限界に至っている。資本の増大を第一にする拡大の運動は、地球の破滅要因となり、これを制御するとことはできていない。

  第二、人間と世界の存在に意味は何か。資本のためなのか。そんなことはあり得ない。この世界から「さち」を受けとる労働の喜びこそ、意味の有無を超えた輝きである。西洋の「学」はギリシア時代に労働を奴隷に任せた貴族の「知」として成立した。生きる現実からのからの遊離は、キリストの神の前の真理として「真理」それ自身を自己目的化することによって正当化された。この「労働」と「知」の分裂は形を変えて生き続けている。分裂した知は働く喜びを知らない。

  第三、働きの場こそ固有の言葉の生まれるところであり、ことわりの世界そのものであり、働くものが固有性に立脚してたがいに分かりあえる土台である。固有性を深く耕し新しい段階の普遍性をめざす。固有性が解放された人間の生き生きとした普遍性は可能である。固有性が互いを認めあって共存するところ(場)としての普遍性は可能である。

  第四、可能性は人間の目的意識的実践によって現実に転化する。それを担うのは新たな「階級」である。世界を覆う新自由主義は新たに階級を形成する。存在としての階級を組織された階級に高める。またそうしなければ虐げられた階級は生きることができない。量的蓄積が質的転化をもたらすことはまちがいない。

  第五、しかしその具体的な方法はまだ明かでない。可能性を現実性に転化するための実践的方途は、開かれた問題のままであり、膨大な努力の蓄積と、現実のちからが不可欠である。前途は明るい。しかし道はまだ見出されていない。

  以上。

  レーニンは「革命は普遍的なことだが、その方法と形式は固有なものである」ということ言っている。これは20世紀の革命のなかでは、実現しなかった。まったく未知な開かれた問題として、われわれの前に横たわっている。

  人類は、社会を構成するすべての人間がすべての情報を共有しつつ、自ら主体的に判断し社会の主人公として生きることができる可能性を、獲得している。これはまた、世界の各民族が、その民族性を最大限に発揮しつつ、人類として、国家の枠組みをこえて協同しうる可能性を意味している。有節音の技術(つまり言葉の獲得)が人間の思想を可能にしたように、高度情報化技術は人間の新しい知恵、すなわち個の尊重と協同して生きることの完全な両立の知恵を可能にしている。これはまさに階級の廃絶された共産主義である。生産力の発展は不可避な客観的過程であった。その不可避の過程が現在到達している段階の、本質的な意義は共産主義が可能性として存在しているというところにある。

  今日、この可能性は、現実性に転化していない。人間はまだ、今日の技術のもつ可能性の実現、つまり人類の人間としての解放の実現を果していない。(一)相対性理論と量子力学という根本的に新しい世界認識によって獲得された現代技術は、人間の真の解放の可能性の技術的土台を準備した。(二)この技術的発展によって生まれた可能性というものは、本質的なものであるがゆえに必ず現実性に転化するし、またしなければならない。(三)しかしにもかかわらず、現実にはこの可能性はまだ可能性のままであり、現実のものとはなっていない。

  歴史の課題をなし得るところから引き受けていこう。

(四)

  アメリカの金融危機を受け,「アメリカの時代は終わるのか」とか「世界は多極化するのか」とかさまざまの論評があふれている。しかし日本の多くの論評は外因論である。問題を内因からとらえなければならない。日本もEUも中国もインドもロシアもアメリカ病に罹ってきたのだ。そして今日の問題は「アメリカ問題」として人類史的なことなのだ。現代世界がそれぞれわがこととして問題をとらえないかぎり活路はない。

  日本では小泉新自由主義のもと、膨大な不正規雇用者が作り出され、多くの貧困層生まれた。教育への公的支出はOECD諸国の中でも最下位に近い水準である。その結果、日本社会は大変脆弱なものになって購買力も低下し生産に比べて内需が小さい。日本社会の基盤は実は大変弱くなっているのだ。日本における「アメリカ問題」である。

  青空学園は五年前の2003年12月、今日を予測し、アメリカ問題を提起した。これは今こそ考えるべき問題である。ここに再録する。今日の事態を内因からとらえよ。そうしなければ、この時代を生きぬくことはできない。

(五)

  危機をとらえる歴史幅

  現下の金融危機をどのような時間幅でとらえるのか。これはその人間の置かれた立場と状況によって異なってくる。失うものがない者ほど問題を大きい幅で根底的にとらえることがでいる。

  (I) 帝国アメリカが没落するという歴史的事実は、最も短い歴史幅でとらえれば20年の幅である。

  産業革命とともに近代資本主義は登場した。それはまさに過酷な収奪と搾取であった。社会主義運動は必然的に燃えあがり、紆余曲折を経て、ついにロシア革命にいたる。人類史上最初の社会主義権力が樹立された。これに対して資本の側は、ケインズ主義といわれる修正資本主義を導入、資本の行動を規制し、一定の富の配分を国家の手で行い、人民の反抗が社会主義に向かいロシア革命が広がることを、おさえようとした。第二次大戦の後のいわゆる戦後復興もまた、基本的にはケインズ主義の範囲であった。

  ところがいわゆる社会主義が行きづまった80年代中期以降、資本主義はケインズ主義を投げ捨て、本来の資本の論理ですべてを推し進めようとした。サッチャー主義でありレーガン主義である。レーガンの時代アメリカはIMFなどを通して中南米の収奪を強化した。そして社会主義陣営が崩壊した90年以降、国際資本は何の遠慮もなく行動した。それが新自由主義である。

  日本では中曽根首相の戦後体制の見直しが、転換の宣言であった。バブルの崩壊を機に資本の側は剥き出しの体制を要求、小泉改革はそれに応えるものであった。それが規制緩和という名の新自由主義である。規制とは資本の横暴を規制することであったが、これを投げ捨てた。

  伝統的な農林漁業を破壊し収奪する。それは単に産業としての農林漁業の破壊ではなく、土地と風土に根ざした生活の破壊であり、人間が生きる意味の破壊である。金融工学というバクチの方法論が大手を振ってまかり通った。結局は多大な困難を貧困層にまき散らして自ら崩壊した。それが崩壊したのだというとらえ方である。これは事実である。

  新自由主義は野放図な資本主義として、金融商品を作り出しデリバティブ取引などの操作によって膨大な利潤を生み出したきた。それは生産活動からの利潤ではなかった。内実は膨大な貧困層を作りだすだけではなく貧困層をさらに収奪する貧困ビジネスそのものであった。ウォール街の資本主義が貧困ビジネス? まさにそうなのである。一方でアフリカ大陸の困難、他方でアメリカ国内の医療破綻、すべて貧困を作り出し貧困から収奪するものではないか。

  このような収奪による利潤が収奪される制度、それがこの間の金融資本主義であった。それはまさに砂上の楼閣であった。そのことがアメリカの2007年夏のサブプライムローンの破綻によって明らかになった。この日からいずれ今日の金融危機が到来することはわかっていた。

  (II) 産業革命以来の資本主義のあり方がゆきづまったのだというとらえ方である。200年の幅で考える。

  バブルに踊った金融資本主義はさらにもう一つ、資源の無駄遣いを制度化する浪費資本主義でもあった。帝国アメリカは、人口あたりで地球平均の何倍にも上る過剰な消費を行い、見かけの繁栄を演出してきた。それを典型とするいわゆる先進資本主義国の消費や浪費が地球の温暖化をもたらし、圧倒的多数の世界の貧困層を生存の危機にまで追いやっている。

  ここからの活路をどの幅で考えるのか。今回の危機の背景に例えば自動車産業の衰退を見る。アメリカの大手三大自動車企業はすでに左前である。日本企業も大きく売り上げを落とし、膨大な利益を失っている。これは単にローンが組めないとかいう経済段階の問題ではなく、このようにエネルギーを個人レベルから使いまくる文明のあり方がつき詰まり問われているのだという考え方である。

  バラク・オバマ次期大統領とその下でアメリカ政治はこの幅で問題を考えるだろう。そして打ち出すのは「環境エネルギー革命」である。現在のアメリカ自動車産業はいずれ立ちいかない。それなら日本車も欧州車も対応に時間のかかるような高い環境基準を設定し、アメリカ自動車産業に政府がてこ入れし、その基準に適合する技術を生み出す。これによって新たな産業を創出する。目前の問題については大きな政府で最低限の生活を保障しつつ、環境に関わる新産業を生み出す。これがアメリカの戦略であり、前の副大統領候補でノーベル賞も得たゴアがその準備をしてきた。

  英国もまた、この幅で考え、ドルの崩壊を見すえて戦略を立てている。イギリスは産業革命の発祥の地として、アメリカのこの間の金融屋産業を批判し新たな通貨体制構築まで主導権をとろうとしているのである。

  田中宇の国際ニュース解説 2008年11月13日  http://tanakanews.com/081113brettonwoods.htm

  ★「世界通貨」で復権狙うイギリス で言う。

  しかし今後時間が経つほど、米国は衰退し、金融界が米のコピーである英国の衰退も進み、米英の弱体化を見て強気になる途上国の主張が声高になり、多極型の世界で英国が黒幕になることは困難になっていく。世界的な大恐慌の中で、覇権をめぐる暗闘が続くだろう。その末にどんな世界体制が出現するかを見極めることが、今後しばらく(2−3年?)の、私の解読作業の中心となりそうだ。

  実際、オバマのアメリカもイギリスもフランスも、おしなべて資源浪費の産業資本主義の行き詰まりを見越して次の手を打っている、その場にける主導権争いをしている。

  日本政府の腐敗 日本政府はオバマやブラウンのように考えることはまったくできていない。この最も短い時間幅でしか考えられていない。日本は1990年代にバブルの崩壊とその後始末を経験した。そのために今回の金融バブルには比較的慎重に対応した。金融機関ということでいえばアメリカや欧州のそれに比べて傷は浅い。政治的には日本政府はアメリカに従属している。そこでこの間アメリカに貢ぎ続けている。今回は10兆円を、本質的にはアメリカの新植民地支配機関であるIMFに拠出することを表明した。日本人民の資産をアメリカに貢ぐのである。

  日本政府は今回の金融危機の本質をとらえることができていない。そのためにこのように金を出せばもういちど新自由主義でやっていくことが出来ると考えているのである。今こんな甘い考えをしているのは麻生とその取り巻きと、ブッシュをその取り巻きだけである。

  資本主義各国の指導部は、彼らの新しい秩序のために暗中模索している。このとき日本の指導層の腐敗と堕落は際立っている。これは、日本経済が当面の金融危機では余り酷いことにならず、その一方で政策的には対米従属を維持することという目先の政策に安住している結果である。だがこれもまた危機の一面なのだ。つまり日本政府には能動的に秩序形成に参加する能力がないのである。

  (III) しかし200年の幅で考え資本主義を維持することは可能か。そうではない。今回の問題の本質は資本主義そのものの行き詰まりなのだ。

  雑誌『クーリエ・ジャポン』12月号に、ル・モンド掲載記事『資本主義が崩壊し、やがて"危機の時代"が到来する』から翻訳されたI.ウォーラステインの言葉が載っている。彼は500年の幅で考えよという。

  これは正しい見通しであると思う。実際、資本主義はまだまだ当面のあいだ、のたうちながらはいずり回り、その過程で多くの人々を塗炭の苦しみに追いやるだろう。日本で小林多喜二の『蟹工船』が読まれ、ドイツではマルクスの『資本論』が読まれている。これは人々が資本主義の終わりを感じとりそこからの活路を求めているこのと結果である。

  (IV) だがしかし、働くものはさらに問題をより原理的に、より大きな枠組で考えなければならない。今回の危機は、資本主義が終焉するだけではなく、じつは階級制度という社会制度が最後の段階に至っているということなのだ。ここをおさえなければならない。次の階級制はもはやない。帝国アメリカの没落のなかに階級制度の終焉を見るのか否かということである。問題の本質は5000年の幅で考えるべきことなのだ。

  しかしさらに言えば、問題の本質はこのような見通しにあるのではない。本当の問題は、人民はそれぞれの場で何を準備するのかということである。

  日本の支配層が凋落すること自体は不可避であり必要なことである。平安貴族の凋落なしには、親鸞も鎌倉幕府もなかった。その途上で人民は塗炭の苦しみを経る。問題を根底的にとらえ、資本の側からの目くらましにごまかされことなく、最悪の道筋に備えつつ最善をつくさなければならない。互いに助けあってこれを乗り越えていかねばならない。互助の精神、互助の組織、これこそが今求められている。それを生みだす思想とその言葉、そして可能なところからの実践、である。

(六)

  大きく枠組をとって細やかに論じなければならない

  21世紀初頭の歴史を一言でいえば、帝国アメリカが没落する時代、ということである。しかしこの没落には多くの混乱と過程が必要だ。来年1月、アメリカではオバマ大統領が誕生する。2009年はいろんな面から激動の年になるだろう。このときに、日本の国内議論は保守の側もそれに対抗するべき人民の側も、余りにも視野が狭く、目先のことに終始しているように思われる。

  1.帝国アメリカはあくまで覇権を放棄せず、帝国の地位回復をめざす。帝国アメリカが自ら退くことなどもちろんありえない。だが、アメリカが、圧倒的多数の貧困な世界に対して非対称なままに、富を独占していこうとすることは可能なのか。

  それを実現するに残される道はファシズムしかないのではないか。歴史はすべてをなしつくさなければ次には進まない。アメリカは巨大なファシズム国家にならざるを得ないのかも知れない。大衆を動員し、人々の人間としての尊厳よりも国家の権益を優先し、従わないものを排除する社会。アメリカの支配層、金融資本と産軍複合体制は、オバマ次期大統領を担ぎ、大衆の熱狂的なエネルギーを動員して、現代型ファシズムを構築しようとしている。

  ファシズムの側もまた歴史の教訓をもっているがゆえに、それはまったく新しい形で現れるかも知れない。先日の田母上前空幕長の論文は新しい日本軍国主義の宣言書である。これが米国に生まれつつあるファシズムと呼応することもあり得る。日本のなかでもファッショを求める潮流もまた既に生まれている。新しい枢軸国ができないとはかぎらない。四年後再選を果たしたオバマと大統領にかえり咲いたプーチンが東西ファッショ国家を率いているという図式も、最悪の場合として想定しておかなければならない。

  2.先日のG20に集まった国々の中にも分岐が起こる。日本の反貧困の闘いを含め、新自由主義に反対するさまざまの闘いにも分岐が起こらざるを得ない。そのなかで、帝国アメリカに反対する世界の諸勢力が、イスラム諸勢力を含め連携を深める。

  それ以外には、新たなファシズム帝国と闘うことはできない。先進国の富の独占に反対し、現実の貧困を土台にして闘われる闘争は、いくつかに分かれている。これが手をつなぐことは希望である。闘いの帰趨を決めるのは世界の人民の連合する力である。だがその力はまだ十分には組織されていない。対抗軸も明確にはなっていない。深い人間性に基づいた対抗軸が形成されなければならない。現在の金融危機が逆にそのような対抗軸の形成を促すかも知れない。

  もちろんここに、ロシアや中国の思惑が絡む。ロシアはかつてアフガンに派兵している。中国は内部にチベット問題とイスラム独立運動をかかえている。彼らには、普遍性ある対抗軸をうち立てる道理はない。しかしまた、帝国アメリカとは矛盾をかかえている。ファシズムが勝つかも知れない。だが、たとえいっときファシズムが勝利しても、それはいつか来た道である。「歴史は必ず繰り返す。最初は悲劇として。そして次は、喜劇として」なのである。

  3.闘いのなかで生まれる人民の連合は必ず未来を開く。われわれの道は曲がりくねっているが、必ず未来に通じている。

  次のアメリカ大統領であるオバマは、アメリカ自動車産業の救済に対して、大幅な労働者の削減計画を求めている。アメリカ民主党は、大金融機関・大企業を救済する一方、労働者のリストラを推進する立場である。米日英とサルコジのフランスがやろうとしていることは、結局のところ、資本主義体制維持のための世界的な民衆収奪体制の再編である。世界はさらに過酷な段階に入る。これに反対する立場は、資本主義体制の歴史的総括を求める以外にない。それなしには、いかなる闘いも前進できない時代になっている。

  その上で、現在の歴史的転換がどのような広がりと深さをもつものであるか、その議論が必要だ。議論の基礎となる歴史認識についても論じなければならない。歴史的な必然性をもつファシズム、その現代的形態について考察しなければならない。日本軍国主義と十五年戦争と戦後政治を総括する。人民の活路としての協働・共産・共生について、その意味と道筋を考える。

  大きな歴史認識がいまほど必要なときはない。同時に、地についた細やかな論が必要なときはない。