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■ 日本神道(二) 17/03/21

この一ヶ月、森友問題がこのように大きく動くとは思わなかった。籠池氏宅を森ゆうこ、小池晃、福島みずほらが訪問し、事情を聞くことになるなどということはまったく想像できなかった。前にも書いたが、2月15日に「春の気配」でこの問題を取り上げたときは、こんな大きな問題がなぜ全国的な問題にならないのか、という気持ちであった。それがこのように、日本の右翼政権の醜悪さを明るみに出すように動いてきた。豊中の木村まこと市議や、独自な立ち位置からこの問題に切り込んできた菅野完さんらのおかげである。この問題の奥は深い。まだまだ拡がるし拡げねばならない。

問題の一般的な意味は、資本主義が行き詰まるなかで、世界中で排外主義や偏狭な民族主義がひろがっている。安倍政権はこのような今日の排外主義的極右民族主義が政権を握った数少ないものであった。ある意味では歴史の最先端を行っていたのであるが、その最先端が崩れ始めた。問題が暴露され、彼らがいかに政治を私物化し、腐敗させて来ていたかが白日の下に曝されてきた。しかし、いったんに握った権力を排外主義者から奪い返すのは容易ではない。彼らはたとえ安倍をすげ替えても、共謀罪は通そうとするだろう。われわれの側ももっともっとやることがある。

それにしても、この排外主義者たちの非人間性の酷さ。安倍はあれだけ籠池氏の思想に共鳴していると言っておきながら、手のひらを返して、捨てようとする。これが彼らの実態である。籠池氏が、何より人間として怒るのはもっともである。右翼国家主義は、本当の理念に基づく団結ではない。人間よりも国家を第一に置くことで、国家のすすめる戦争に個人を駆り出す役割を果たす。これは欧州の極右政党などについても言えることである。さらに経済が行き詰まるなかで、富を一部のものが独占するために、排外主義を煽る。安倍政権の意味もここにあった。

そのうえで、この問題の日本固有の意味は、戦前の国家神道の復活をめざす日本会議や神社本庁の本当の姿が、ここで暴露され表に出てきたということである。以下は、前に書いた「日本神道(一)」の続きである。いずれまとめて原稿にするが、今はまだ草稿の段階である。

戦前とはつまり明治から昭和の日本近代であるが、その明治維新の現実は倒幕維新に夢をかけた国学の徒を裏切ってゆく。これについては「いま『夜明け前』を読む」を見られたい。そして明治前半期に形成された近代日本の国家神道は、本来の日本神道とは真逆のものであった。明治維新は、幕府体制の末端をになっていた寺を神仏分離、廃仏毀釈のもとに国家から切り離した。しかしその後、逆に今度は神社が国家に組みこまれ、国家神道となる。国家神道は、「場をむすぶ神」を「国家をむすぶ天皇」に置きかえることで成立した。国家神道は、国家を第一にし、人を第二とする。そして、実際には国家の戦争に人々を動員するための役割をはたした。こうして、遂にあの十五年戦争に至る。この戦争は日本の歴史において未曾有のことであった。南太平洋から東南アジア、東北アジア、中国大陸と朝鮮半島、いわば日本列島弧に住むものの祖先の地のすべてに兵を進めた。そして敗北した。

昭和二十二年、民俗学者の折口信夫は神社本庁創立一周年記念の講演「民族教から人類教へ」のなかで、古代から天皇は人であったということを語っている。現人神の否定である。折口は戦前戦後を通じて天皇が神であるという考え方はとらなかった。それは民俗学の良心である。しかし、神社本庁当局は「この折口学説は、一参考に過ぎず、神社本庁がこの説を公認するものではない」と釈明し、国家神道復活の方向に進んだ。

一方、戦後体制では、天皇を「象徴」と位置づけてきた。これは「国家をむすぶ天皇」そのものを、もう一度一から見直した上でのことではなかった。「国家をむすぶ天皇」は、戦後も「象徴天皇」という考え方のなかにひきつがれている。しかし、日本神道では、人が神であるということはありえない。「むすぶもの」は神であり、神のはたらきである。「象徴」にもまた、深い矛盾が存在している。国家神道を根底から見直すということがないままに戦後体制ははじまった。それに対応して、戦争責任もまた内部から問われることはなく、明治維新ののちに成立した官僚制などの基礎組織はそのまま残った。そして、戦後は一転、対米従属の政治となる。アメリカの核戦略の一環として地震列島に原発をいくつも作ってきた。ついに福島の核惨事に到った。

第二次大戦後の米国と世界を支配してきた金融資本と軍需産業の複合体は、弱肉強食のいわゆる新自由主義をひろくゆきわたらせてきた。しかし今日、経済世界はもはや拡大するところが軍事以外にはなく、拡大を旨とする資本主義が根底からゆききづまる段階に至っている。

ここからの活路をきり拓くことが求められている。このとき、すなおな祈りの心をその根底におく日本神道は、歴史の求めに応じてゆこうとするものに対して、生きる道を指し示すものである。あらためて神の語ることを聴かねばならない。神のことを聴け。そして今の世の有り様を顧みよ。このとき、すなおな心が聞きとどける神の言葉、すなわち今日の問題に即して日本神道の教えることは、次のようなことである。

第一に、すなおな心で祈れ。人は、人として互いを敬え。人のさまざまな力は、けっして私のものではない。世に還してゆかねばならない。人を育て、人に支えられる世を生みださねばならない。人は資源ではない。今日の日本は、人を金儲けの資源としている。これは神道に背く。

第二に、言葉を慈しめ。人は言葉によって力をあわせて生きてきた。人を人とする言葉、それが固有の言葉であり、ここでは日本語である。新たな言葉は固有の言葉のから拓き耕さなければ意味が定まらず、考える力は育たない。近代日本の漢字造語やカタカナ語は日本語のことわりと無縁である。これでは、若者の考える力は育たず、学問の根は浅く、人を動かす力も弱い。もういちど日本語を見直せ。

第三に、ものはみな共生しなければならない。いのちあるものは、互いを敬い大切にしなければならない。里山と社寺叢林とそしてそこに生きるものたちを大切にせよ。無言で立つ木々のことを聴け。差しせまった問題についていえば、金儲けを第一に動かすかぎり原発はかならずいのちを侵す。すべからくこれをいったん廃炉にせよ。

第四に、ものみな循環する。消費し拡大しなければ存続し得ない現代の資本主義は終焉する。経済が第一のいまの世を、人が第一の世に転換せよ。人にとって経済は、人として生きるための方法であって、目的ではない。人が人として互いに敬い協働する。人といのちの共生のためにこそ、経済はある。

第五に、たがいの神道を尊重し、たがいに認めあって共生せよ。神のことを聴き、そして話しあえば途はひらける。国家は方法であって目的ではない。国家は戦争をしてはならない。戦争はいのちと日々の暮らしを破壊する。まして戦争で儲けてはならない。専守防衛、戦争放棄、これをかたく守れ。

これが日本神道の教えることである。

日本近代の国家神道は、日本神道の真逆のものである。それは、日本語から定義される神道ではなく、神道を語りながら神道に背いている。そして、国家神道に起源をもつ日本会議や神社本庁が主導する排外主義と軍事主義が、安倍政権である。資本主義は行きづまり軍需産業しか利潤を生みださない。日本もまた戦争で儲けようとする世界大の資本主義の輪にとりいれられた。再び戦争に人を動かすために、かつての国家神道とその体制を復活させようとする動きが、この間続いている。

しかし、日本神道に背いた近代の国家神道と、そこに回帰しようとする神社本庁と日本会議、それに操られる今日の政治は、いずれ遠からず神の大きな怒りにふれる。同時に、このような政治を許してきたわれわれもまた、神の怒りに正面から向きあわなければならない。神道をふまえ、その教えをすなおな心で聴きとり、新しい世をひらけ。