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■ 資本主義を超える一歩を 18/12/14

 アベ政治を許さないという行動の本質は、この資本主義のあり方を問うということである。

 現代の普遍の問題は、資本主義がもはや拡大の余地がなく、終焉をむかえているが、次の時代が見えない、ということである。大域資本主義が終焉するのはいかなる形においてであるのか。そしてそれは自然に終焉にするのか、あるいは人々の闘いによってであるのか。問題は資本主義生産関係そのものを変えるかどうかではなく、資本に人が使われるのか、人が資本主義的生産関係を使いこなすのかの問題である。

 こうして経済の時代から人の時代へ大きく転換させてゆく。かつて、社会主義陣営が存在して時代には、その圧力の下、資本主義陣営においても資本の放縦な動きを規制する様々の仕組みがあった。社会主義が崩壊して以降、その規制はほとんど取り除かれた。

 もういちど規制をもっと強力に総体的に行わなければならない。それはしかし、この資本主義権力の下ではありえない。それは人々の闘い以外に生み出されることはない。人民の権力によって、資本の放縦な動きを規制せよ、これが当面する歴史の要求である。そうすることによってこそ、自然の恵が循環し広く行きわたる。

 以上は、世界大の資本主義の現在に関する普遍的命題である。しかし、大域資本主義は、普遍の名の下に地域や邦の固有性を奪う。資本主義の押しつける偽りの普遍性に対抗し、これを越えて、固有性の共存する真の普遍の場を創り出し、そこにおいてこそ生産関係としての資本主義を使いこなす新たな人を生み出すのでなければならない。

 そのうえで、日本という国家地域に固有の問題がある。非西洋で最初に近代資本主義の世となった日本は、底の浅い根なし草の近代のままに、この終焉期を最初にむかえたということ、これが第一である。そして、国家というものが根底から問われなければならないとき、日本というところは、郷土を愛するということと国家を愛するということが短絡するという、歴史的条件をもっているということ、これが第二である。

 これはまさに、現代の普遍的な問題の固有性をとおした具体化である。真の抵抗とそしてそのうえにうち立てられる人民の権力は、この固有性に立脚しなければありえない。この途を、「転換期の智慧」で考えた。

 そして、この固有性の上に、理念をもって、それぞれの場のあり方でまず資本を規制する。これが始まりである。近代を駆け抜けてきたわれわれには、一般的かつ個別の問題がこのように明確である。しかし、日本の現実の動きは、世界のさまざまに津での動きに比べてはるかに遅く、問題の共有もまた進んではいない。

 近代日本や西欧の帝国主義に苦しめられ、それに対して闘い、戦後はまたアメリカを後ろ盾とする独裁政権とも闘ってきたところが、今日の歴史でははるかに先を行き、帝国アメリカの衰退を見越して次の段階の準備をしている。中国やロシアそして欧州もまた、アメリカ後の世界の準備をはじめている。トランプのアメリカ自体が、覇権国家から脱却しようとしている。

 これに対して、日本列島弧の政治は古い体制のもとでの延命を図るばかりで、歴史の現在からはるかに遅れている。東洋の島国日本は、大域資本主義に食い尽くされ、さらに核汚染にさらされ、人々は困窮し、空しく落ちぶれてゆく。非西洋で最初に近代化、つまりは資本主義化した日本が、百五十年を経て大きく変わろうとしている。世を支え働く人々は、ものも心もまったく貧しいところに追いやられている。これは資本主義日本の世の衰退そのものであり、行きつくところ、つまりは失敗国家となってゆくことが避けがたい。

 転換を現実のものとしてゆくために、そこまでいかねばならないのであれば、それは、避けがたい。まさに国破れて山河もなきところから、歩みはじめる。われわれには、もういちど掘り起こした日本語がある。これあるかぎり、途はひらける。