今年は天皇代替わりの年であり、その諸行事がある。アベ政治はこれを利用し、支配体制の揺らぎを天皇制礼賛で覆いかくそうとするだろう。年末にも書いたがここで改めて書き置きたい。
日本の方がフランスよりずっとひどい状況なのに、フランス人は立ち上がり、日本人は黙って耐える。そのわけをひと言でいえば、竹内好が「一木一草に天皇制がある」(「権力と芸術」、講座『現代芸術』第二巻、所収)というこの天皇制である。
『神道新論』に天皇制の起源について書いたことだが、要約すると
天皇家の祖先は千数百年前大陸からやってきた。その支配権が確立したころ、古代日本の各地の王権の歴史を簒奪し「日本書紀」を書き出し、日本列島に内発した王権であるとの虚構をうち立てた。そしてそれと矛盾する多くの文書を焚書にした。彼らは、農業協働体がおこなってきたさまざまの習俗を取り込み、天皇家がそれを代表するかのように振舞うことで支配の権威を打ち立てた。大嘗祭も、もととなる祭は収穫の感謝の祭であった。
天皇制とは虚構の上にあるものなのだ。そしてそれが、ひとり一人が自分で考えることを抑えつけてきた。その歴史のうえにわれわれの側にある草木にもやどる天皇制、その内からの克服、これが課題である。個々の天皇についてここで言うことはない。
資本主義が終焉期をむかえた中での代替わりである。この期に及んでもそれでも経済を拡大しようとする諸々の勢力が、天皇制を煙幕に使うことにまどわされてはならない。資本主義の次の時代を見すえたわれわれの理念と運動が問われる一年となる。
しかしまた、天皇制の克服ということは、近代主義的な反天皇論とその運動では不可能である。天皇制という根深い大きな木を倒そうとして、地表に出ているところをたたいているだけだ。それは自己満足に過ぎない。ここがなかなか闘うもののなかでも理解されていない。深い根まで掘り下げねばならない。そこから天皇制が大きな虚構のうえにあるものであることをつかみ、日本語のいう神と天皇は両立しないことを、明らかにしなければならない。
日本というこの列島における天皇制は、階級支配とともにあった。これを忘れてはならない。であるから、階級支配をそのままに天皇制だけをなくそうとしてもそれはありえない。そしていまは資本主義の終焉期である。資本主義はマルクスが明らかにしたように最後の階級社会である。
それが終焉期をむかえているからこそ、天皇制の終焉もまた現実問題なのである。これを一体に捉える視点と理念が必要だ。大きなそして長い過程と、その過程を生きる理念が必要である。
『神道新論』は、根なし草の近代主義を克服して、日本語のことわりに根ざして、日本語のいう神と天皇制は両立しないことを明らかにし、竹内好の言う天皇制をのりこえてゆく途をも提示するものであり、その思想的な土台作りの試みの一つである。