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■ 敗戦の日に 20/08/15

8月15日は、日本軍国主義が連合国に敗北した日である。しかし戦後75年、この日を「敗戦の日」とは言わず「終戦の日」と言ってきた。それはなぜか。私は『神道新論』の中で次のように書いた。
 戦後政治は国家神道を根底から見直すことがないままにはじまった。それに対応して、戦争責任もまた内部から問われることなく、明治維新ののちに成立した官僚制などの基礎組織はそのまま残った。
 そして、あれだけ「鬼畜米英を撃て」と国民を動員しておきながら、戦後は一転、対米隷属の政治となる。対米従属のもと、アメリカの核戦略の一環として地震列島に原発をいくつも作り、ついに福島原発の核惨事に至るのである。これは、非西洋にあって最初に近代化をとげた日本の、その近代の一つの帰結であった。
 「終戦」と言うのは、戦前と戦後が連続していることを認めさせるためであり、あの戦争を遂行したものたちが戦争責任からのがれるためである。「戦争に負けたのではない、終わったのだ。誰が終わらせたのだ。昭和天皇だ」と戦後に続く論理である。東京裁判でも、ごく一部のものにだけ責任をとらせ、多くのものは対米従属の手先としてのこされた。その末裔の一人が安倍であり、天皇もまたそうである。
 言葉による曖昧化で言えば、「戦没者」もそうである。「戦死者」でなければならない。徴兵されそして戦場で死んだのである。「死」をとおして戦争の事実と向きあうことを避けさせるために戦没と言うのだ。
 この戦後処理の無責任に強い怒りをもっていたのが小田実であった。私はそのことを『震災以降』のなかの「昭和天皇」に書いている。戦後75年の今年、このような怒りの声は新聞やテレビではまったく聞かれない。

 そのなかで、今日、朝から大阪京橋で街頭宣伝していた園君たちは次のように呼びかけている。
最大の戦争犯罪者、天皇による12時の黙祷反対!
真の反省とは、アジア、沖縄、アイヌへの植民地支配、侵略戦争への謝罪と賠償、全責任者の処罰です!
天皇による追悼式典と全国一斉黙祷、靖国神社での黙祷などは全て欺瞞です。人の死の政治利用です。
 私はその通りであると考える。若い世代からこのような声があがることを嬉しく思う。それに対する今日の日本の現実の悲惨は、明治以来の根なし草近代のそのゆえである。そのことをおさえ、この根なし草近代を越えてゆかねばならないと考えている。
 日本はこれからも没落を続ける。アジアのなかでも、世界のなかでも、もっとも悲惨な国となってゆく。これを越えてゆく道はまことに困難であり、現代世界が直面する困難の日本における困難そのものである。

 さて、この数日、仕事をしながらいろいろ考える。私がこれまでいろいろなことをやってきたなかで、どれが自分の一番の仕事かを考えるときがあった。そして青空学園数学科こそがそれであることに納得した。自分としては日本語科こそが一番の仕事だとしてきたが、事実はやはり数学科での蓄積である。
 それでこの数日、今年の問題の解答解説を作ったり、その他いろいろ手を入れるのに時間をとった。
 それでも、今日の敗戦の日の様々なことをみると、私が日本語科でやってきたこともまたそれなりの意味があることを確認する。この意味をつかむ人がまだ少ないことは事実である。しかし根なし草近代を越えてゆくために、このような基礎作業は不可欠である。
 自分の仕事の意味をいろいろ考えさせられる敗戦の日であった。