われわれのこころざすところはなかなかに遠く、また大きな問題であり、さらにそれが真実なことであればあるほど、真実は細部に宿り、一般論は無力です。対話こそその細部たらんとするものでした。対話はすでに語るべきことがあってなされるのではなく、対話の場こそ語るべきことが生まれてくるところです。つくづくとそのように思います。小説家は作品の細部に真実を宿らせ、思想家は文章に展開して語るのですが、私どもはまさにこの対話こそそのような作品ではないか、そのように考えます。
南海 私はこの秋、ささいなことですが一つ新しい証明を見出しました。ゼータ関数の偶数値の関数値の公式の初等的な証明ができた。はじめは混沌として、ただこの方向で何か証明が組み立てられるはずだということで思いを集めて考え続けました。
若い数学者はもっと大がかりな道具を用いて考えていくのです。われわれのような教育従事者は、初等的な数学の内でいろいろ考えるのです。現代数学の道具はひとつひとつ必然性があるのですが、多くの人の努力でできあがると、大がかりな道具に見えます。その意味で、現代数学は南極探検のような組織的研究です。初等数学での探求は近所の山登りのようなものです。ただそこにはやはり共通性があって、いかに南極探検でも現地に行けば両足で歩かなければならないということです。両足で歩くことの大切さを改めて納得ました。
正しいにちがいないがそのからくりが分からないというところで、いろいろ試行錯誤をし、まったく不思議なところでベルヌーイ関数が立ち現れてきて、そのからくりが見えたときは本当に驚きました。わかった喜びというのは、まさに「山路来てなにやらゆかしすみれ草」(芭蕉)ということです。こんなところにこんな事実が咲いているのかと思いました。久しぶりに数学の喜びに出会いました。
北原 私もまた新たに考えるところがありました。われわれは明治維新の背景にあった西洋帝国主義の圧力と、その下で上からの近代化を余儀なくされた東洋を対置し、「反西洋」としての非西洋の深い団結を思想の土台に置いてきました。アジア思想といいアジア主義といい、また東洋の理想といい、基本にあるのは西洋帝国主義とどのように闘うか、またその主体をどのように作っていくのか、このような問題意識が基調にありました。
しかし実際には西洋も十分苦しんできたのです。われわれは反西洋ではなく、西洋の苦悩を我が苦しみととらえ、ともにそれを越えていくのでなければならないと考えるようになりました。西洋近代の苦悩に比して東洋の苦悩はまだ底が浅いとは言いません。それはちがうのです。われわれも、あるいは近代日本の侵略を受けた東アジアも、大きな苦しみを背負ってきた。また沖縄も近代において苦しんできた。しかしまた西洋も苦悩してきたのです。
そのように考える契機の一つに横光利一の『旅愁』を読んだことがあります。横光利一は1936年、半年間、欧州を旅行する。出発直後に二・二六事件が起こる。ヨーロッパではベルリンのオリンピックや、パリでの人民戦線政府への激動を直接体験する。この経験をもとに、翌年から『旅愁』の連載をはじめる。それを戦後に四編として刊行、それが小説『旅愁』です。
私はこの二年のうちに二度フランスを旅する機会があり、フランスの風土を体感することができていたので、それも相まって『旅愁』は印象深かったです。これはまさに戦時中フランスの半年滞在した横光の感性を基礎に戦時中に書きはじめれれたものです。戦後の混乱期に横光が急性腹膜炎て若死にしたために、未完となった小説です。その主題は、横光のパリ遊学で生まれてきた西洋と東洋の問題です。
彼はそれを西洋の合理主義思想とそれに対する日本の古神道という枠組で考えようとしました。その軸は近代合理主義とパリの繁栄を肯定する考え方に対し、日本の風土に根ざした文化を肯定する感性との対比です。そして細部として人民戦線内閣の成立と赤旗に揺れるパリを描き、西洋近代に反対する内部の運動としての左翼と人民闘争の盛り上がりを描く。本当に一つ一つの情景が真に迫る筆です。
しかし小説は盧溝橋事件の勃発までを書いたところで未完に終わった。そのために、日本の風土に根ざした感性が、その後起こった侵略戦争と日本軍国主義の残虐さとどのようにつながりまた断絶ているのか、この点についての横光の展開がありません。それは後世に残された問題であり、その問題は今もって解決されてはいないのです。
横光のこの小説を二、三日かけて一気に読んだのです。ここで横光が小説家として問題にした事々はこれまでわれわれが考えてきた事々を越えててはいません。われわれはその後の人間の歴史を踏まえているからそれは当然です。ただ、小説の力を感じたのは、細部に真実を垣間見せながら、彼自身が考え続けているその姿が、小説から浮かびあがって来ることでした。
南海 西洋は十分苦しんだといわれました。実際、西洋は内的に展開し、その原動力は西洋内部の対立や闘争でした。であるがゆえにその苦悩もまた大きかった。これを反西洋という立場で無視することはできません。反西洋という時の西洋は、帝国主義西洋であり、西洋近代の資本主義であり、それを生みだした近代の合理主義にもとずく西洋文明です。
しかし、西洋文明の下で苦悩した西洋のいくつもの文化があることを忘れてはならないのです。この西洋文明に抗った文化です。それを西洋文化と一つにくくることもできません。西洋文明を肯定しそれを推し進めたのもまた文化なのですから。その総体をもって文化というならそれはそれで正当なのですが。
この問題を正確にとらえるためには、まず文明と文化を定義しておかなければなりません。私は「数学は文明の方法である」ということを言ってきました。実際、現代の文明では、あらゆるところで数学が基本的な方法として用いられています。情報機器、交通手段、建造物、すべて数学なしには設計もできず建設もできず、運転もできない。つまり存在しえない。また、あらゆる経済活動は数をもとにおこなわれ、数学なしに生産活動を組織することはできない。
しかし文明という言葉の定義をしなければ意味するところが正確なものとはなりません。1996年に米ハーバード大学のハンチントン教授が出した本『文明の衝突』では、欧米(西欧)文明が衰退し、中華(中国)文明などが台頭して欧米をしのぐとか、米中戦争が起こりうるといったシナリオが書かれています。この本は、欧米文明、中華文明、イスラム文明、ヒンドゥー文明(インド)、ロシア(東方正教会)文明、ラテンアメリカ文明、日本文明など、今日の世界にいくつもの文明があるように書かれています。
しかしそれは正しくない。文明とは技術が規定する人間社会の有り様であり、今日の世界では西洋にはじまる文明が全世界を覆っています。第一次世界大戦まで、世界には複数の文明がありました。コロンブスに始まるスペイン帝国は、マヤ、アステカといった中南米の文明を侵略して滅ぼした。欧州で産業革命が始まるまで、中国は欧州よりずっと豊かで、中国には欧州にない高度な技術やシステムが存在していた。当時の中国は「中華文明」でした。産業革命で欧州が強くなり豊かになった英国が、アヘン戦争で中国を破って植民地化し、第一次大戦でオスマントルコを滅ぼしたことにより、世界の文明は西洋文明に単一化された。これは避けがたい事実であり、今日むしろこの西洋文明において近代日本や現代中国はそれをより一般化し普遍化した。
文明は単一化した。この文明のもとで人間がどのように生きてゆくのかという問題は文化の問題です。この文化を深めるためにこそ、文明の本質をつかまなければならないのです。文明とは、一定の技術で実現される世のある段階です。文明の歴史は基本的に技術の段階で画されます。では現代文明はどのような技術段階で画されるのか。
現代文明はあらゆるものを形式化しさらに数字化してつかみ動かそうとする基本的な傾向をもっています。人間がこういうものだと認識した、つまり言葉で分節したあらゆるものに番号を振ろう(コード化しよう)とします。同時に現代文明は原子力を制御しようとする文明です。情報技術と原子力の制御は相対性理論と量子力学に基礎を置いています。この現代文明の基本傾向をおしとどめることはできません。現代文明とは原子力と情報技術で画される文明です。そしてそれは地球を覆う一つの文明となりました。
それがいいことであるとか人間性に反するとかいう議論以前に事実です。世界を数学化してつかもうとする基本的な方向性を現代文明は持っています。この基本における仕方こそ、文明の方法としての数学です。数学を基礎として現代文明は成り立っています。
人間はつねに、ある文明のもとで生きているのですが、そこで生きるうえでの具体的な形を与えるのが文化です。文化は歴史的に形成された固有性をもっています。文化は一定の広がりをもちます。文化をどの段階でとらえるかによってその広がりも変わります。統治者がその立場から、国家の統治の範囲として文化の共通性を作ろうとする傾向も不可避です。
文化は文明を相対的に見る視点をもち、文明のなかにある反自然、反人間性と対峙するものです。学術の研究とは、この文化を耕し、文明のもとにおける人間の生き方を豊かにするとともに、文明をもまた改変していくものです。
文明の方法として数学をとらえる文化が日本の文化のなかでまっとうな位置をしめることができていない。あるいは日本の文化が文明の方法としての数学をとらえきる視点を確立していない。世上いわれる「文化としての数学」は定義があいまいで底が浅く、とても文明の方法としての数学をとらえる文化にはなっていません。私は、数学が日本社会に根づくとしたら、文化が「文明の方法としての数学」をとらえ直すことからしかはじまらないと考えています。
北原 西洋近代文明それ自体は不可避でした。西洋においてもこれをおし進めそのもとで生きようとするもの、この文明に反対しそのなかで人間としての生を全うしようとするもの、それぞれがあり、それが西洋文化を形づくった。苦悩、苦しみ、それが西洋文化の土台です。
現代文明のかかえる根本的な矛盾とその意義についてはそれを陳述する言葉を準備し述べなければならないと考えています。それは今準備していることそのものです。そのうえで、文明と文化に関する意見に賛成です。文明は英語では civilization と肯定的におさえられます。しかしわれわれの文明観からすればそれは肯定も否定もない現実の歴史段階です。そしてその文明のもとにおける人間の生きる型が文化です。産業革命以降の文明の進展とそのもとでの人間の生き方、そこに文化がありました。
文化ということにおいて西洋は苦悩してきたし、その苦悩はわれわれ自身の問題でもある。もとよりわれわれ非西洋のものの困難は西洋の困難と同じではありません。奴隷貿易以来の西洋文明による収奪を受けたアフリカの困難はあまりに大きい。内部からの展開によって、この困難を越えることができるのか。内部から展開する土台自体が破壊されているのではないか。
内的発展の土台の破壊、これにどのように対するのか。この問題が非西洋の困難の本質です。この困難の本質は言葉を奪われていることではないかと考えています。そして、この問題においてわれわれもまたアフリカの困難をわが問題とする基盤を見出すことができます。
文明に対抗する文化、その文化の基礎となるものが人間の言葉です。内的発展の土台の破壊という困難は西洋が経験していないことです。少なくとも西洋の中心部は内発的に展開したことによって、言葉もまた内発的に展開しました。それは当然のことと考えられてきました。
2009年11月25日付朝日新聞『漫画にコスプレに薄く広がった詩情−金や権力なじまぬ』
かつて、詩は文系青年のたしなみであり教養でもあった。ところが、いまは社会の表舞台から姿を消したように見える。詩はどこへ行ったのか。現代における数少ない「詩人」谷川俊太郎さんに詩のありかを尋ねた。 (聞き手・鈴木繁)
谷川…
明治期に欧米輸入の思想や観念を、苦労して漢語という外国語で翻訳した。でも、身についていない抽象語で議論をはじめると、すごく混乱しちゃいますよね。現代詩も同じ。現代詩は伝統詩歌を否定したところから始まっている。詩は人々をむすぶものであるはずなのに、個性、自己表現を追求して、新しいことをやっているという自己満足が詩人を孤立させていった。
「明治期に欧米輸入の思想や観念を、苦労して漢語という外国語で翻訳」しなければならなかった。それは西洋帝国主義の圧力です。ただそれをやむを得ぬことと気づかず、そのままその言葉でやってきたのが多数です。奴隷はどれであることに気づかないことにおいて真の奴隷である。日本語世界の多数は、言葉という人間の尊厳にとってもっとも基本的な問題で、真の奴隷であった。
詩人の感性はその問題を見逃さなかった。「身についていない抽象語」では、本当のところ議論することも考えることもできない。これは私たちが青空学園で一貫して問題にしてきたことです。
同じ頃に出た『ヒットの源流は平安朝』という2009年11月28日の朝日新聞で、日本を始めとして、世界中の民族音楽の調査や研究に従事し、その意義を説き続け、そして1975年、病に倒れた小泉文夫さんを取りあげていた。
小泉さんにとって、東大の日本音楽史の講義で三味線と筝の実演を聴き、地にひれ伏さんばかりの衝撃に打たれた体験が「第二の音楽開眼だった」と伝記(岡田真紀著)に書いている。
西洋音楽崇拝のくびきがそこで断ち切れ、民謡などの日本の伝統音楽や、世界の民族音楽の実地調査へと一心不乱にのめりこんでいった。
…
機銃掃射のように、群れをなす男たちの声のパルスを速射するインドネシア・バリ島の男声合唱「ケチヤ」の上演で知られる芸能山城組が74年に旗揚げされる糸□をつくったのも小泉さんだった。組頭の山城祥二さん(76)はこう語る。
「音楽を聴けば、その背後にある社会の構造、文化の特質がすべて解読できる。逆にいえば、そんな根っこを持たない、切り花をとってつけたような音楽はいただけない、と先生は繰り返し言っておられました」
ヒットの予言者になりすます前から、小泉さんは歌謡曲ファンだったわけではない。「絶望音階」の「四七抜き」の演歌を聴かされるのは肉体的苦痛だったと本人も告白している。「日本人の音感を掘り下げるために耳を澄ませて聴きこむうち、感性の幅が広がったのでしょう」と岡田さんはいう。
病により50代半ばで命脈が尽きた早すぎた晩年、音楽の神髄の探究の果てに歌謡曲があったのだ。
小泉さんの言葉を、音楽を言葉に直していうと「言葉を聴けば、その背後にある社会の構造、文化の特質がすべて解読できる。逆にいえば、そんな根っこを持たない、切り花をとってつけたような言葉はいただけない」となる。
小泉さんがいいたいことは詩人の谷川さんが指摘することと同じです。やはり、「三味線と筝の実演を聴き、地にひれ伏さんばかりの衝撃に打たれた」という感性のある人ゆえに分かっていたのです。
南海 しかしそれは感性のするどい人だけの問題ではありません。われわれのような人間もまた、固有の言葉を耕さずして本当に考えることができるのかということを問題にしてきました。やはり人間として自ら考えるということをどれだけ大切にするかという問題はないかと思います。
北原 一方で、すでに取りあげましたが、大学の哲学者といわれる人から次のような言葉が出てくるのも事実です。
『思考のパルティータ 13: 〈歴史の真理〉に向かって (13) ―メタ哲学としての佛教の可能性☆1』(小林康夫)
いまからおよそ100年以上も前に、日本は、西欧から、「哲学」を輸入し、それを移植しました。そのために、多くの哲学的な用語を新たに翻訳し、新語を作りだしました。それらの言葉はすでにもはやわれわれの言語と思考の完全な一部となっています。
なんとう気楽な発言でしょうか。これはブラジルでおこなわれた学会でなされた発言のようです。
ブラジルはブラジル化したポルトガル語が多数を占め、そこにインディオの言葉が混在する状況です。そのポルトガル語はヨーロッパポルトガル語とはずいぶんちがいます。それをブラジル語というのかどうかという議論もあるほどです。植民地化された非西洋は、言葉において日本よりももっと深い痛手を負っています。そのうえでどのようにして人間の言葉を築いてゆくのかという問題があるはずです。
ブラジルで発言するのなら、ブラジルの言葉の問題を指摘し、日本の近代における経験を語るべきです。それ以外に哲学者にすることはあるのでしょうか。
南海 『悲しき熱帯』の著者、フランスの文化人類学者で構造学の創始者、クロード・レビストロースが2009年10月31日に死去しました。1908年11月28日、ブリュッセル生まれだから、もう少しで101歳になるところでした。
産経新聞パリ特派員の山口昌子さんがかつて行った会見のことを書いている。http://yamaguchis.iza.ne.jp/blog/ そのなかで次のように言う。
1994年の春の外国人叙勲で勲2等旭日重光章を受賞した際、インタビューしたことがある。
当時はベルリンの壁が崩壊して民族紛争が最大の時事問題だった。
会見では、ベルリンの壁崩壊でイデオロギーの時代が終焉したことに言及、「人類学は第三のヒューマニズム」と指摘。「この第三のヒューマニズムが人類を救済できることがあるかもしれないと考えたことがある」と述べた。また、人類学は個人や政府にある種の知恵を授けられることだと指摘したこともある」とも述べた。
日本の果たすべき役割については、「日本の偉大な力は”二重の規格”と呼ばれるものだ。外国の影響に対し自国を定期的に開放すると同時に、独自の価値や伝統的精神に対して忠実な点だ」など示唆に富んだ考察を1時間以上にわたって披瀝した。記者冥利につきる幸福な時間だった。
レビストロースは「外国の影響に対し自国を定期的に開放すると同時に、独自の価値や伝統的精神に対して忠実な点」という。そのことは、大きくはやはりそうなのであるが、それを可能にする文化、その構造とその内部矛盾、あるいは二つの方向の鬩ぎ合いとその克服、等の問題の困難さという問題は、われわれのものです。
この問題に関してこの百年の経験をまとめてこそ、それは世界に寄与しうる「日本の経験」です。しかしまずこの問題をつかむことがはじまりです。「それらの言葉はすでにもはやわれわれの言語と思考の完全な一部となっています。」といっていては何も問題がないことになってしまう。それではありません。哲学者とは人が何も問題がないと考えているところに原則を対峙させ、いやここにこのような問題があるではないかと提起する人でなければなりません。
南海
ここでいわれた内容を、実際の対話やあるいは陳述の言葉として述べることはまだできていません。日本の近代の苦しみはそれ自体新しい智慧への糧です。この立場が打ち立ちつつあります。また十分に現実とかみ合わすこともできていません。それを再確認し、もう一息考え続けたいと思います。