【ある】[aru]
■[ar]は「この世界のなかで無かったものが現れる」を意味し、「アレ(生)」や「アラハレ(現)」と共通の不変部である。無いところに現れ、それを認めた話者が現れた状態を「ある」という。人がものを見つけたとき、人は「ものがある」と述べる。「ある」の基本は「現れたこと」の発見である。発見は見いだされるものの側から言えば出現であり、「ある」は「生れ出る」や「現れ出る」を意味としてはじめから内にもつ。
□[ar]はタミル語<alar>起源。[arafaru](現はる)、[aru](生る)、[are](神の出現)。
◆次の二つの段階の意味をもつ。
第一,この世界のなかでそれまではなかったものが現れ、「現れた」あるいは「あった、あった」と発見されること。「ある」は、はじめから抽象的・普遍的な「ある」であったのではなく、また人を離れて「ある」のでもない。つねに発見者に対して「ある」。現れた結果としての状態も意味する。「山がある」のは山からいえば山の発現であり、人からいえば山の発見である。
第二,「ある」と発見されることが可能にある根拠としての「ある」。なぜ見つけて『ある』と述べることができるのか。さまざまの段階をへて最終的には、発見の可能性の根拠は「それがあるからだ」ということになる。「『ある』と発見できるのはそれが『ある』からだ」というとき、この第二の『ある』は最初の「ある」とは違う。第二の「ある」は「ある」の第二義、つまり個別の人を離れて一般的に「ある」ことを意味している。この最終的な発見の可能性の根拠としての「ある」ことを「存在する」といい、この「ある」の根拠としての「あること」を「存在」という。だから「ある」を「存在すること」と定義することは同語反復でしかない。
※「ある」はいわゆる動詞である。これに対して「ない」は発見できないという状態・状況としていわゆる形容詞である。
▼「もの」がある。 ◇『古事記』上・歌謡「賢し女を阿理(アリ)と聞かして」 ◇『万葉集』三五九四「潮待つと安里(アリ)ける船を」(住む、暮らす) ◇『竹取物語』「翁のあらん限は」(この世に生きている。生き長らえる。) ◇『竹取物語』「心たばかりある人にて」(すぐれている) ◇『竹取物語』「三日ばかりありて」(間に時がある、から時間の経過) ◇『源氏物語』夕顔「ある人々もしのびてうち泣くさまなど」(居合わせる) ◇『源氏物語』桐壺「南殿にてありし儀式」(儀式) ◇『古今集』「わが思ふ人はありやなしやと」(無事でいる) ◇『平家物語』一〇「このごろは世にある人こそ多けれ」(はなやかに暮らす) ◇林のなかに祠がある。 ◇なんだ、机の上にあった。 ◇宇治は京都の南東にある。 ◇彼には子がある。 ◇ありし日の面影を偲ぶ。
▼「こと」がある。
▽言葉がある。 ◇『古今集』六一「郭公まつ歌よめとありければ」(との言葉があった) ◇宣伝のためとあって安く売っていた。
▽発見が「こと」なら、「そのことを発見しました」ということを表す陳述の補助語になる。
○出現した結果、或いは出現したはずの結果。 ◇『古事記』中・歌謡「一つ松人に阿里(アリ)せば太刀佩(は)けましを」 ◇『万葉集』三四三「なかなかに人と有(あら)ずは酒壺になりにてしかも」 ◇もしこれがあたりであればよかったのだが。
○出現した状態。 ◇『古事記』上・歌謡「君が装したふとく阿理(アリ)けり」 ◇『古事記』下・歌謡「み山隠りて見えずかも阿良(アラ)む」 ◇『枕草子』六七「秋の野のおしなべたるをかしさは、薄(すすき)こそあれ」 ◇『我輩は猫である』夏目漱石「そんなことあるはずがない」
○動作、作用、状態の進行、継続や、完了した作用の結果 ◇『万葉集』三六八六「旅なれば思ひ絶えても安里(アリ)つれど」 ◇『万葉集』一五二〇「かくのみや恋ひつつ安良(アラ)む」 ◇『平家物語』一「正月五日、主上御元服あって」 ◇『太平記』三「少し御まどろみ有ける御夢に」 ◇遺書には云々と書かれている。(書いてある状態がある)
※「…である」この言いまわしは近代になって西欧語、例えば英語の連辞「be」の翻訳のために多く用いられるようになった。「I am a boy」を「私は少年である」と訳すようにである。しかし一方でもともと「ある」には陳述の「ある」があった。日常の現代日本語として「である」はこの話者の陳述を表している。「私は少年である」といえば、「私は(大人ではなく)少年である」と判断の陳述がなされている。つまり英語の連辞とは異なる。翻訳において「…である」が連辞に対応して用いられるが、その日常的な意味は英語の連辞とは、異なる。話者をはなれて客観的に二つのものを等置しようとする連辞と「である」は異なる。実際に客観的に等置されることはあり得ないし、そこから等置するものとしての「神」の視点が言葉の構造に組み込まれたのが西洋語である。逆に日本語は「等置する人」との関係が言葉のなかに組み込まれている。
英語の「be」ような連辞が日常語に組み込まれていると、客観的に二つのものを等置する判断は現実に可能なのかという問いが日常的に起こってくる。ここに西欧の「存在論」が起こる土台がある.存在論は、西欧語の構造が引き起こすこの日常的な疑問を土台に展開された。