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しこう

【思考(しこう)】

もの思いを掛け、もののことを考える。「もの」はいわゆる物質ではなく、人間が言葉によって切りとろうとするすべてである。それに思いを掛ける。そしてそのもののことわりを開く。それが考えることである。

例えば学校の工作で、「このようなもの」を作ろうとするときのように、思い浮かべられたものであることもあれば、実際に目の前で見ているものであることもある。また、文字を見てその文字の意味を考える場合、見られた文字はものである。その文字も意味が「もののこと」となるのである。

「思考」は「思いがけ(掛け)ず」の逆に、ものにひきつけられ心をものに寄せるという働きが前提である。そのうえで、そのもののことを割って「ことわり」を明らかにあること、これが「思考」である。

※「思考」は明治時代に、英語の「thinking」、フランス語の「 pensée」、ドイツ語の「Denken」等の翻訳語として作られた詞であるといわれる。しかし「思考」は翻訳語ではない。翻訳というなら、すでに日本語のなかに「思考」という言葉があって、それが「thinking」とほぼ同じ意味であることが先行していなければならない。しかし「思考」は「thinking」に出会うまでは日本語の中にはなかった。だから翻訳でもない。造語である。

人間は、あるものを本当に思うのなら、そのもののことを本当に考える。つまり「もの」と「こと」は別の意味と構造をもつが、一方また、深く因果の関係がある。西洋語の「thinking」が、日本語においては「思いを掛ける」ことと、「ことを考える」という二つの構造的に異なる面に分化する。言葉の構造自体が「思い」と「考え」とそれをつなぐ生きた働き(因果の関係)との三相でとらえるところに、日本語のことわりがある。

明治期にはそこまで立ちかえって西洋文明を受けとめる暇はなかった。近代日本語はこの違いを二字熟語のなかに押し込め、塗り隠してしまった。「事物(ものとこと)」「思考(思うと考える)」という言葉を作くることによってこの区別を覆い隠し「もの」を人びとから隠した。

なぜ隠す必要があったのか。近代とは資本主義を導入する時代である。効率よく近代化を図るためにはそれまでの日本語は複雑に過ぎた。「いきもの」のような生きたものは資本主義生産の対象たりえない。あくまで「物質」でなければならなかった。人間の労働力とその労働の対象としての物質、まさに西洋文明を構築してきた二項対立の構図である。明治期に作られた漢字造語は古代からの三項構造の日本語を隠し、二項構造の見かけを作るために必要であった。西洋帝国主義の圧力のもとで近代化を進めるために、それは急いでなされた。そしてこの二字熟語は同じ発展途上にあった漢字圏に広まった。

「もの」と「こと」の違いを押し込めた漢字語をいくら作っても、それで日本語の本来の構造を隠しきることなどできない。なぜなら「もの」のような基本語は日本語の中でつねに用いられる。それは日々の暮らしと感情を支えているからである。

その結果、日本語の辞典はその意味を述べることができない。『広辞苑』(第三版)では「思いめぐらすこと、考え」とあり、『岩波国語辞典』(1963年)では「考え、考えること」とある。しかしこれらは言いかえただけであり、意味を定義しているとは言い難い。

『岩波小辞典・哲学』(1958年)では「思考」が「広い意味では人間の知的作用を総括していう語であるが、通常は感性の作用と区別され、概念、判断、推理の作用をいう」とされている。しかしこれでは「思考」を、「感性」の否定と、「概念、判断、推理」という別の漢字造語への置きかえている以上のことはなされていない。

現代日本語では、「思考力」、「思考方法」、「思考作用」や「思考する」と用いられるが、実際にもちいられているときの「思考」の意味は「頭を働かす」「頭を働かした内容」ということ以上ではない。そしてそれは thinking や Denken ともまた違うものでしかない。

◆明治期の用例。一と三は翻訳のため、二は漢字熟語の調子のために用いられている。

◇『花柳春話』織田純一郎訳「此を読み彼を閲し、或は書紀し或は思考す」
◇『露団々』幸田露伴「氏の心中必ず充分精細の思考を有するを知るに足れり」
◇『吾輩は猫である』夏目漱石「余は思考す、故に余は存在す」

◆現代日本語の用例。いずれも働きとしての「考え」を漢字熟語にするために用いられている。

◇得られた情報を使って思考を生み出す。(得られた情報を使って考えることを始める。)
◇新しい思考が生まれる。(新しい考え方が生まれる。)
◇パソコンは思考の道具だ。(考えるための道具だ。)

 


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