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確率の構造

高校確率の混乱

よく勉強している高校生から質問がでる.
     教科書では「独立な試行の確率」の冒頭に, 「1個のさいころを投げる試行と,1枚の硬貨を投げる試行において,互いにその結果に影響を及ぼさない. これらの試行は独立であるという」などと書かれている.ここでいう「独立」と,「事象の独立」での「独立」は同じことなのですか,違うのですか.

     事象とは試行の結果ですから,「試行の独立」と「事象の独立」は同じことのはずではないのですか. ところが, $P(A \cap B)=P(A)P(B)$という等式は,「独立試行」では,結果としてこれが成立すると書かれていますが,「事象の独立」ではこれがその定義になっています.結果なのですか,定義なのですか.

     また,独立でない試行の例として,くじを1回目に引く試行をS,2回目に引く試行をTとしたうえで,「引いたくじをもとに戻さない場合」をあげています.

     しかしこの場合,1回目に当たりを引くか外れを引くかで,2回目にくじを引く条件が異なります.2回目のTは「同じ状態のもとでくりかえすことができる」という条件に反するので,試行とは言えないのではないでしょうか.

このような疑問が寄せられた.これは当然である.

実際,「試行の独立」,あるいは「独立試行」という用語は,教育現場に混乱をもたらしている.

ある教科書は「同じ状態のもとでくりかえすことができる」ことを試行の条件として書く. そのうえで「2つの試行が互いに他方の結果に影響しないとき,これらの試行は独立である」と書く. また,この教科書は

     2つの独立な試行$S$$T$を行うとき,$S$$A$が起こり, $T$$B$が起こる事象を$C$とすると,事象$C$の確率は

\begin{displaymath}
P(C)=P(A)P(B)
\end{displaymath}

と書く.

一方,事象の独立は,積事象の確率が確率の積になることとして定義された. ところが,この記述では,何の論証もなしに,この等式が提示される. いったいこの等式は「2つの試行$S$$T$が独立である」ことの定義なのか, あるいは結論として出てくるものなのか不明である.

ではどのように考えるべきなのか.

私は質問を寄せた高校生に次のように答えた.

試行とは,手順「戻して$n$回引く」とか,「戻さずに$n$回引く」などの規則にもとづく一連の行為全体を意味し,それによって定まる確率空間を基礎とする,というのが確率論の立場である.

$n$回くじを引くとき,その結果は(◯××◯…)のような$n$個の◯と×の順列の全体である.戻すときも戻さないときも,その確率は計算できる.そのなかで1回目当たりという事象は(◯△△…)(△はどちらでもよい)の形をした部分集合であり,その確率も計算できる.2回目当たりという事象は(△◯△…)の形をした部分集合,1,2回目当たりという事象は(◯◯△…)の形をした部分集合である.その確率も計算できる.

これが任意の$k$回目と$l$回目で計算でき,その事象が独立か否かが定まる. $k$回目の事象と$l$回目の事象が,各$k$$l$で独立なとき, その試行を「独立試行」という.それぞれの回の確率的行為が独立という意味ではない.$n$回くじを引くという試行の性質なのである.

実際,かつては教科書もそのようになっていた. 手元にある1969年の実教出版の教科書では,「独立試行」の「独立」はこの手順の性質としてつけられた形容詞であって,1回1回の確率的行為が独立という意味ではない.

このように,独立試行という概念は, 事象の独立のなかに含むことができ, またそうしてこそ,確率論の記述となる.

また,教科書では「独立な試行の確率」の冒頭に, 「1個のさいころを投げる試行と,1枚の硬貨を投げる試行において,互いにその結果に影響を及ぼさない. これらの試行は独立であるという」などと書かれている. しかし,これもまた,事象の独立を経てはじめてその意味が明確になることなのである.

現在の高校数学の確率は,現実を分析する体系やその構造を教えるのではなく,ただ経験主義的に資料の整理を教えるのみである.

コルモゴロフの仕事の意義を押さえ、それを少しでも高校生や大学初年級に伝えよう,そうすることで,現実の現象を捉えるための数学的準備としての確率論を伝える.今日,大データの扱いがいろいろ言われる.しかし,確率論ぬきの大データの処理は,理屈抜きの単なる計算にすぎない.





Aozora 2018-08-09