一九八六年九月二九日、市の教育委員会が分会長と書記長に対し、時間内組合活動を違法であるとして、停職一ヶ月の処分をおこなった。これは八〇年代労働運動の右傾化と解体のなかで起こったものであり、それまでは認めてきた正当な組合活動を、一方的に違法とするものであった。分会が属していた高教祖は、問題の本質をとらえることができず、組織的にはまったく闘わなかった。
地域やさまざまの労働者の支援を得て、数年の裁判闘争を経て一九九九年地裁勝訴、二〇〇一年秋には当局の上訴断念で勝訴が確定し、この処分自体は撤回させることが出来た。しかし、この労働運動への弾圧は、市が、行政改革の名の下に、いわゆる「弱者切り捨て」政策を進めるために、それに反対する勢力を切り崩すためのものであった。職場で進めていた障害者の教育保障などの取り組みが、この後すべて解体され、ついにこの高校自体、二〇〇七年三月で廃校された。
職場に、六八年四月二十八日に上京して死ぬ気で闘ったという元活動かがいた。彼は奄美大島の出身で神戸外大の夜間を働きながら出て、英語の教師をしていた。立派な人だった。彼と教育運動を一緒にやりながら、ブントのグループとも知り合った。こうして、地域で労働運動や部落解放運動を担う人たちと、党を作り出そうとする活動をはじめた。そのころ関西各地の生産点に入った共産主義者同盟の流れをくむ人々と出会った。彼らと「新左翼運動を総括し、党を建設しなければならない」という点で一致し、この点で一致するものが集まってグループを結成した。 この世界のなかでそれを根本から否定する新しい人間の結合を実現しようとした。結局すべてはここを軸としていた。
しかし、いかなる点で新左翼運動を総括するのか。それは自分自身も、またグループとしても明かではなく、ただこのままではだめだ、という認識しかなかった。したがって、私自身、新左翼の思想潮流のなかで学生時代から過ごし、当然のように「日本は帝国主義である。日本革命は社会主義一段階革命である。反スターリン主義」をそのまま自己の思想としていた。
一方で私は、職場における教育運動と労働運動に真剣に取り組んだ。現実の労働者の要求をかかげて闘ううちに、「現実に労働者が要求していることは民主主義ではないか。労働者階級の存在からくる階級としての普遍的な要求は民主主義の実現なのである」ということに気がついた。ここに党の綱領と革命論は立脚しなければならない。歴史を観念で飛び越えることはできないのである。 われわれのグループはいつまでもと党的な組織に脱皮しえなかった。真の原因は、その立脚する思想が真理でないからであった。しかし、私はそのことがわからず、党たる機関活動を建設せよと組織論を先行させて内部に訴え論争していた。
当時、いわゆる日本共産党代々木派と部落解放同盟の対立が頂点に達し、八鹿高校現地では、高教祖の組合員と解放同盟員の対立が激化した。解放同盟の教育に対する要求は切実であったがまた性急でもあった。一方,教師は話し合いを拒み集団で学校を離れようとした。こうして衝突が起きた。
私は、解放同盟の現地調査に参加した。それを自分の観点で見てみると、対立する人々の要求をより戦略的な立場から調整し、改良的な成果を積みあげながら、運動を展開するためには、党的立場にあるものが責任を持たねばならないのに、高教祖指導部にも解放同盟指導部にも、そのような観点はなかった。現地調査をとおして、党というものの決定的な意義を知る。解同は反共の立場だった。結局最後は党が闘う党かどうかの問題だと考えた。
私は自らマルクス・レーニン主義を根底から学びなおそうとして、七八年秋、神戸で若い労働者とともに徹底的に原点にかえって学んだ。その内容を総括し、自らの思想を整理して、七九年六月「綱領的立場を獲得するために」を執筆。ここで基本的に連続革命論を獲得した。連続革命論のみが、哲学的唯物論に立脚した実践的綱領なのである。当時は哲学に依拠してではなく、実際は経験主義的にそれを獲得した。
この前後よりこの立場をもって論争を開始したが、しかし内部に呼応するものはなく、逆にあるものは「これからはエコロジーだ。」といい出す始末であった(その人はそれでもそれを実践し今は農業をやっている)。私はこの時点では新左翼を総括しきったわけではなかった。しかし、現場の労働組合の幹部として、新左翼の思想は誤っており、実践的ではなく、それで闘えないことははっきりとした。
グループの結集軸は反スターリンであり、結局煮詰めていけば反スターリンを軸に左翼を再結集しようとするものであった。私はそのようには考えなかった。ロシア革命は人間の歴史上で始めて社会主義の権力を樹立したものであり、革命に続く社会主義建設もまたまったく経験のない始めてのものであった。しかも、全世界の資本主義に包囲され直接的にはナチスの反革命陰謀の渦巻く渦巻くなかで新しい社会を建設しなければならなかった。その過程で、今の歴史的条件なら別の方法ですべきさまざまの問題があったことは確かである。しかし、スターリンと当時のソ連が千万人におよぶ犠牲をはらって反ファシズム連合の中心として第二次世界大戦を闘いぬいたことは事実であり、八百万人に及ぶ犠牲を払った毛沢東と中国人民の日本軍国主義との闘争とともに、戦後世界を創り出したことは事実である。戦後の一定の改良的な成果としての政治活動の自由もこのスターリンと毛沢東、そのもとで闘ったソ連や中国人民の闘争なくしてはあり得なかったのである。戦後の新左翼の反スターリン主義はこ政治活動の自由のうえに可能であったのであり、スターリンを本当に否定すればそれは自らを存在させているその土台の否定を否定することになる、私は学生時代からこのように考え、当然のように学生運動の中にあった反スターリン主義とは一線を画していた。
私はここにも真理はないと結論した。その時考えたことは、第一に、真理とはすべての、土台における実践の検証に耐えうるものでなければならない。第二に、真理に依拠しない組織は、絶対に党たりえない。第三に、党たりえない組織の団結は、すべていずれは崩壊する。事実、グループは後に私を「スターリニストだ」と除名して程なく解体した。歴史は非情である。
これらの点で党派の基本は正しく,その実践綱領も自分の経験に照らして正しいと考えられた。
こうして、一九八〇年七月一五日,日本の革命運動の継承を掲げる党派の結成に参加した。結党にあたって徳田球一を継承するということを正面に掲げたことは、まったく異議がなかった。まさにそうだ、と思った。徳田球一に対する尊敬と敬慕の気持ちはいまもまったく変わらない。むしろその後の歴史のなかで、徳田球一を掲げるこの私の参加した党派が実は徳田球一の顔に泥を塗るものであることが明らかになった。当時はそこまではわからなかった。人間は、いずれにせよ社会を変えようとするときには組織を持たねばならない。そしてそれか背歴史的・堅実的・社会的なものである以上、具体的な先人の努力を継承してそこからはじめなければならない。この点で、八〇年代を徳田球一の伝統を現代に復興しようとして闘うことに、激しく燃えるものを感じていた。
私は、一九七三年からこの職場に働き教育運動と労働運動に真剣に取り組むとともに、党派の活動にも打ち込んできた。一九八六年の弾圧を受け、労働運動はここまでやったのだしかし労働運動のなかで問題は解決しない。これからは党派の活動に専念しようと考えた。
このとき地域の解放同盟支部長の故山口富三さんに相談した。彼は日本の戦後革命の時代を経験していた。その時代の闘う共産党を支持していた。私がそのような党の再建に働きたいというと,それに賛成し激励してくれた。山口さんとはもっといろいろなことを話したかった。とりわけ部落解放運動や解放教育運動について話したかった。
一九八七年三月、職場を去った。