シンポジュウムでも「日本語は情緒的で,日本語で論文を書くと曖昧になる」という意味の発言があった.しかしそれではいけない.日本語で論述ができなければ,そこから人を育てることはできない.
私は,塾などで高校生に数学を教え始めたとき,高校生の言葉で考える力,つまりは論述の力が衰えているという問題に直面した.
いかなる言葉であっても,それが言葉として生きているかぎり構造をもち,その構造によって定まる言葉の論理がある.それを取りだし,近代の日本語の論述の言葉を生み出してゆかねばならない.言葉とは存在を分節してつかむことであり,同時に考えることそのものであり,それをまとめ,話し書いてゆくことである.
この力がおしなべて弱い.何度も何度もこの事実に出会ってきた.考える力の衰退という現実に出会うことで,自分自身が高校時代,近代日本語への違和感を強くもっていたことにあらためて気づいた.そのころ読んだ哲学の本のなかに「思考する」という言葉が何度も出てきた.しかし高校生の自分には「思考する」とはどのように頭を働かせることなのかわからなかった.「思う」はわかる.「考える」もわかる.だが「思考する」はわからなかった.
高校生の私は「思う」と「考える」は別の言葉だと考えていた.「私のことをほんとうに思っているの.」「そうだよ.」「なら、もっとしっかり考えてよ.」という対話がある.
この対話は,「思う」という言葉と「考える」という言葉が,並置できない別の言葉であることを示している.同時に,ほんとうに思うのなら考えるはずだということも意味している.別の言葉だからこそ,この使い分けができる.
ところが近代日本語は,これをそのまま繋いで並置し「思考する」という言葉を作った.これは英語の think 等に対応するための漢字造語であって,それまで用いてきた日本語に根ざした言葉ではない.
このような問題を日本語の基層から考えたのが『神道新論』([4])である.このような作業が,数学教育の内容的な準備と並行されねばならない.
これを私は青空学園日本語科で積みあげてきた.ようやく人に語る段階となり,出版した次第である.
それにあわせて,いわば学問論というべきことも書き置いてきた.それが先の掲示板での書き込みにある『数学のすすめ』である.その目次は次のようになっている.
大学という進路/近代日本の大学/大学と学問の変化/学生生活を能動的に/若者が未来をつくる
生きる力と勉強の力/まずもてる力で考えよ/実践なくして習得なし/自分自身との闘い/言葉の力がすべての土台
いきいきと考えよう/分からない,からあと5分/黒板を写すな,ノートをとれ/まず挑戦し,まちがいに学べ/手で考え,それをまとめる
まったくこれはいまの大学生に言いたいことでもある.「まずもてる力で考えよ」では次のことを提起した.
力は内から 勉強の途上で何か分からないことに出会ったら,まず,現在の自分の内部の力,自分の知っている方法で考える.これは練習問題にかぎらずいえることだ.これまでいろんなことを勉強し,一定の知識を持っている.今の自分の知識をもとに考える.すぐに類題や例題の解答を見たりしない.教科書などで言葉の定義は正確に確認する.
そして何が問題であるかがつかめたら自分で考える.まず自分の内部の力で考える.これを内因論の態度という.いま自分の内にある知識と方法で考える.そのことによって解き方を考えたり方法そのものを工夫する力が育つ.
それに対して,すぐに例題の解答に頼ったり,まだ習っていないからできないと放置したり,こういう態度を外因論という.やり方を知らないからとあきらめたり,安易に解答を見たり,解き方を人に聞いたりする.これでは力が伸びない.
内因論が身についている人は,確実に力が伸びる.こうやって一歩一歩その分野を自分のものにし,自分の内に考える力を育てていく.あらゆる教科についていえることであるばかりでなく,人間が生きていくにあたってぶつかるすべての問題に対し,内因論の態度で事にあたる.
内因論 ものごとはすべて内(うち)からの力によって動き,生成し,発展し,成長する.結局は内からの力による以外に何事も解決しない.どれだけ内部の要因が熟し,内部の力が育っているかである.このようなものの見方・考え方の基本を「内因論」という.つまり内因論とは,すべてのものは置かれた状況に対応して,それ自身の内部の要因によって展開しそれ以外ではあり得ない,という立場である.
そして,そうであるなら,われわれもまた自身の内の力を第一にして,何ごとにも取り組もう.この基本的な態度が内因論である.これは単純なことであり,誰もが否定しがたい.しかし現実には,すぐに人に頼ったり,外部に依存した生き方(行き方)をする人が多い.内因論を,ものの見方や考え方,人間の生き方,そして組織のあり方にまで一貫させるには,意識的な努力が必要だ.
困難でも確実に頂上にいたる道を 自分の力を信じ,困難でも確実に目的地にいたる道を歩んで欲しい.頂上に至る道ほど勾配がきつく,険しい道である.その道が険しいからといって,勾配の緩やかなところばかりを歩いていると,いつまでたっても頂上には至らない.山の周りをまわっているばかりになってしまう.目の前に二つの道がありいずれに進むか迷ったなら,困難に見える道を選べ.実はそれがいちばん確かな道なのだ.それが目的地に続く道なのだ.
自分にとってより困難に見える道を選び,そして努力の末に解決した.このような経験はこれからの力になる.高校時代の勉強,受験期の勉強をとおして,このような勉強の姿勢,人生の態度が身につけば,それは何よりあなたの財産になる.
さらに『別解研究』や『新作改作問題』などで,この数学的現象としての問題を掘り下げることを示してきた.これらはすべて,それを学ぶことで自らそのように考えられる力をつけてほしいとの観点からなしてきた.
これらはいずれも,教育数学を述べてゆく前提の準備である.そのように考えて蓄積してきた.